................................................................................................................................................ ART-REN |
"ART-REN" とは、多分野の参加者が共同で『展覧会』を企画するというプロジェクトチームです。 実際、作家が自主的に個展をする環境は厳しく、美術館やギャラリーの取り上げる作家は必ずしも美術界の現場を反映したものとはいえません。そのような状況の中で、埋もれて力尽きてしまう若い才能を支援し、制作の環境を少しでもよくしたいという願いもあります。 |
"ART-REN" は、江戸時代に行われていた『連』という在り方を倣い、その名称としました。 1. 決して巨大化せず適正規模を保つ(そのため連の数が増える) (※『連』については、以下に参照資料あり) |
今回の "ART-REN project vol. 1" の賛同メンバーは以下の通りです。 谷本天志 画家 岩野勝人 彫刻家 原 久子 アートプログラムディレクター 片山和彦 GALLERY wks. 代表 |
今回は "ART-REN project vol. 1"として『中西信洋 展』を企画します。 『 中西信洋の作品を初めて目にした時には、日常的なイメージを玩びながら、それなりに格好よくクールで現代的、骨の抜けたドローイングと思わせぶりなタイトル、親しげでありながら自閉的・・・というスタイルで煙に巻く今時はやりのヘナチョコ系の作家だと思っていた、どちらかというと鼻持ちがならぬタイプだ。 しかし、偶然立て続けに数回目にした中西信洋の作品はその度ごとに新たな方法で「日常」の違和感を突きつけてきた。特別な新しい仕掛けがあるわけではない、でも何かいつもニヤッとさせる新鮮さがあった。楽しみにしていた「明日」に出会えた喜びと軽い喪失感。そして、そこには大量のドローイングによって「私」と「日常」を真摯に問い続けている作家の姿があることを知った。 同時代に生きていることに喜びを感じさせてくれる作家は少ない、新作だの個展だのといわれてもうんざりする作家ばかりだ、しかし中西信洋は希有な、新作が待ち遠しい作家だ。いつも予想がつかない、鮮やかな裏切りで斬り返す。それは鑑賞者と作家のとても幸福な蜜月だと思う。 自惚れと自意識にまみれた個展にも、安易なコンセプトでもっともらしく装った学芸員の企画展にも辟易している私達が観たいのはこのような作家の展覧会なのだと、ARTREN企画のvol.1として中西信洋に展覧会を依頼した。 今回はどのように私達の予想を裏切ってくれるのだろうか。そのような、作品のうまれるリアルな現場を是非多くの方々に体験してもらいたい、そして展覧会を作る喜びに参加して欲しい。』 |
参考資料 江戸時代の『 連 』 とは何か 日本語でいう「連」とはForumのことであり、RENと発音する。「連」という言葉はふつう単独で使われることはなく、「〜連」というように名前をつけて使う。名前のついた連(forum)は3人から20人ほどのメンバーから成るが、メンバーは1回限りで解散することもあり、長く続くこともある。目的は様々で、日本の江戸時代(1603〜1867)であれば、主にソフトを作ることや研究や翻訳に専念した。俳諧、狂歌、落とし咄、浮世絵、博物学、団扇や手拭いなどのデザインなどである。これらは企業とは無縁の動きで単なる「遊び」であるが、結果として市場に出回ることはいくらでもあった。また政治や学問とも無縁であるが、結果として一般的でない学問(蘭学など)の形成を支えたり、実際に武士、商人、職人たちの情報交換の場でもあった。 江戸時代の連の特徴は、決して巨大化せず適正規模を保つこと(そのため連の数が増える)、存続を目的としていないこと、コーディネイターはいるが強力なリーダーはいないこと、費用は参加者が各々の経済力に従って負担すること、パトロンと芸術家、享受者と提供者の分離がなく全員が創造者であること、様々な年齢、階級、職業が混在していること、メンバーの出入りが自由であること、他の連と密接なつながりがあること、メンバー各々が多名であること、などである。連に参加する創造的な人間は、活動によって複数(ときには数十個)の名前を使いわけているのがふつうである。 日本の連の起源は二つの方向から考えられる。ひとつは「連歌」である。古代から和歌の冗談バージョンとして「俳諧歌」というものがあった。「俳諧」とは中国語で滑稽の意味である。この俳諧歌を上の句の「575」と下の句の「77」のパートに分けて、複数の人間が鎖のようにつなげて作ることが始まり、これを「鎖連歌」と言った。中世の連歌は100句、50句を連ねた。連歌を作るためには複数の人間が集まる必要があった。 そもそも日本の和歌の起源は「歌垣」にあり、和歌は通常「宴(うたげ)」で作られるものであり、和歌を生み出した貴族社会には「歌合わせ」という和歌の競技会もあって、集まって歌を作るのは自然なことだった。 この連歌は様々な革新を経た後、17世紀には「俳諧」として農民から商人までを巻き込む文学の一大ジャンルとなって社会に定着した。そのころ指導者(宗匠)として全国を巡っていたのが芭蕉である。「俳句」は、明治になって俳諧が西欧文学の観念のもとに組み替えられた結果できあがった近代の産物である。江戸時代まではこのように社会全体の生活の中に「複数の人間による文学創造」が日常のこととして定着していたため、連はいつでもどこでも、どのような目的であっても、形成される可能性があった。 連のもうひとつの起源は農村の社会構造である。日本の村は「村」を最小単位とするものでなく、多数の小グループが複雑に交錯し合って村を形成していた。それらは機能によって「座」「講」「組」「結」「中」と呼ばれていた。その中の「講」は仏教の布教にともなってできた全国ネットワークをもつものであり、村は小グループによって外の村とつながっていた。また農村の「一揆」のグループと連歌のグループとは重なることがしばしばであった。町の運営の単位もこの構造に似せて作られていた。 「連」という言葉は中国起源である。中国語ではこれを Lian と発音する。「荷を運ぶ車」と「道を行くこと」が組合わさってできた字である。かつて、「つらなる」意味はむしろ中国語の「聯」(これもLian)にあった。これは、「耳」と「糸」とを組み合わせた字である。「聯」の字の中には「左右対称」の意味が含まれており、そのため、門に左右対称に貼る祝福の文字や、対になった掛軸などを「聯」と呼んだ。また中国にも「聯詩」という、詩を複数の人間がつなげていく形があるが、この場合も「聯」を使った。ただし現在では中国でも、「聯」は連合の意味に、「連」は「つらなる」意味に使っている。 日本では左右対称性によるものごとの完結を、意味の上でも意匠の上でも避ける傾向にあり、道の上を旅するがごとく未完結に連ねてゆく「連」の方が好まれたと思われる。ちなみに、連の仲間のことを日本語で「連中(れんじゅう)」と言うが、この言葉は中国語では「続けざまに」という意味しかない。中国語で、「連」を使う人間関係「連属」は親戚づきあいのことで「連宗」は同姓のつながりのことであり、両方とも家族関係に関する言葉である。その意味でも「連」の中には日本社会の特質が見える。 (田中優子氏 論文より引用) |