備前(伊部)焼へ

日本の焼き物は、土着のものと朝鮮・中国・その他の国から渡来した技術や日本人の情感とが
渾然一体(こんぜんいったい)となって、独特の工芸に発展しました。

日本の焼き物

縄文式土器

日本列島に居た先住民族が、縄文式土器という独特の焼き物を作りました。
考古学上、メソポタミア・エジプトなどでは紀元前5000年ごろから土器が作られていたと言われていまが
縄文式土器は、エドワード モース博士によって明治19年(1886)大森貝塚(東京都大森駅隣)で発見
されました。放射性炭素による年代測定から極古いものは、一万年以前の物もあると言われています。
粘土を紐状(ひもじょう)に延ばして、ぐるぐると輪形に巻き上げ、表面を平にするため縄を巻き付けた棒で
転がす・擦るなどして、表面を整え叩き締めます。その時、縄状の紋様が表面に残るので縄文式土器と呼ばれました。
縄文式土器も時代を経て形が変化してきます。ドッシリした形になり、紋様は渦巻き・蕨手(わらびて)のような美しく繊細なデザインになります。
生活のスタイルは、狩猟から農耕を中心とする居住生活に変化し、器を作る環境も調って来たと思われます。
縄文式土器は、数千年に渡り作られ日本全国に出土しています。

弥生式土器

日本列島と大陸との交流が始まった紀元前300年頃から土器は縄文式土器から弥生式土器に引き継がれます。
東京都文京区弥生町で明治17年(1884)有坂博士により発見された弥生式土器は、薄手の土器で作り方もロクロは使いませんが、左右対称に作られていきます。
丸みを持ち底に安定感があり、縄文式土器の様な彫刻紋様や強い装飾が無くなり、器の表面は平滑で、わずかに櫛目紋などの簡素単純な装飾が施されています。
この頃は、麦・粟が有り稲作も行われていました。農耕と共に織物の技術・銅器・鉄器の製法も大陸から伝わりました。

焼き方の特徴

縄文式土器・弥生式土器は、粘土製の器を野積みし、上から薪でおおい火をつけます。後から薪を足して焚いたと考えられています。
古墳時代に葬祭用として土器が多く作られました。
埴輪からは当時の生活文化なども想像できます。中には大変美しい物もあり技術が進歩して土師器(はじき)に引き継がれました。
奈良・平安朝まで日用品なども多くの種類が焼かれました。

須恵器

須恵器は四世紀頃、窯を築き焼いたと思われます。窯を使用するという新しい技術で1000度上に焼かれた須恵器は今までの土器と比べて質が硬くなりました。

釉(ゆう)釉薬(うわぐすり)

須恵器は燃料(薪)の灰が器に降りかかり1000度以上の高温になると、その表面が熔けてガラス質の皮膜ができます。これが釉の初めで自然に出来るので自然釉と言います。
このように須恵器の初めは無釉の土器でしたが技術が進歩して焼き締めによって水を透しにくい土器ができ、最後には釉として木の灰を塗って焼いたと思われるような陶器が出現しました。

日本の代表的な陶磁器の産地

(他にも掲載されてない産地・個人作家も多くあります)

会津・益子・東京・九谷・越前・美濃・瀬戸・美濃・常滑・祖母懐・信楽・京都
伊賀・朝日・赤膚・淡路・丹波・備前・萩・砥部・高取・上野・唐津・有田・薩摩

六古窯(ろっこよう)

灰釉を施し、高温で焼いた本格的な陶器が瀬戸付近で多く作られましたが、
瀬戸・常滑(とこなめ)・越前・信楽・丹波(立杭)・備前(伊部)の6ヶ所では
鎌倉時代から窯を焚く煙突の煙が登っています。