桓武天皇第五子一品式部卿葛原親王から三代の孫高望王の時平氏姓を賜り、その嫡子国香次男繁盛の流れが藤橋氏となっていく、藤橋氏は国香流の平氏姓にて海東氏の後に標葉氏となり現在は藤橋氏十九代目である 国香の三男繁盛は平将門を討った貞盛の弟でその子継繁は出羽守となった 。代々鎮守府将軍を歴任して六代後に海東小太郎平朝臣成衡がいる。成衡の父忠衡は常陸大丞となり常陸の国府にいたが成衡は訳あって岩城にいた。そして清原真衡の望みにより源頼義の娘徳姫と結婚して清原真衡の養子になった が、しかしそれが原因で後三年役が始まる。清原氏の内部抗争であるこの戦いも真衡の病死で収まるかに見えたが清衡と家衡の争いとなり成衡は義兄源義家と共に清衡側に参戦して討ち死にしてしまう 、この時本来成衡が死亡した場合成衡の五人の子供が清原家の領地を相続するのが本当だが義家と深くつながった清衡が相続し奥州藤原三代の基礎を創った。一方成衡の子供嫡男隆祐、次男隆衡、三男隆久、四男隆義、五男隆行は父成衡の領地のみを五分してそれぞれの地名を姓とした 。四男隆義が標葉郡を領して標葉始祖となり標葉四郎左ェ門左京太夫隆義と号した。話しを元に戻すと成衡の父忠衡はなぜ嫡男の成衡を養子に出したかと疑問が残る、忠衡は常陸太政となった為常陸の国府にいた時出羽守清原真衡より子供がいない為ぜひ成衡を養子に欲しい 、嫁には源義家の妹、すなわち源頼義と多気権守平宗基の娘との間に生まれた女子徳姫を迎えるのでと申し出があり忠衡にとっては悪い話しではなかった 。常陸太政は次男に継がせ成衡には源氏の娘を嫁に名族清原氏を継がせるというものだ、真衡にしても清原氏に源氏と平氏の血を入れ武家の頂点にできる事で互いの利が一致したのである。しかしこの真衡の計画も真衡自身の病死によって清原氏は滅亡してしまう。桓武天皇から始まり平国香を経て標葉初代までの間平氏標葉流藤橋氏には源頼義と平宗基の血が流れている事となる 。これも清原真衡のおかげである、歴史上真衡は良くは書かれないが当家にとっては第一の功労者と言える。


平氏、海東氏、清原氏、標葉氏、藤橋氏との繋がりが解かったところで代々の官位と受領名と仮名について少し書いてみる。標葉氏の初代が四郎左京太夫隆義である 。したがって標葉、藤橋と続く中でだびたび出て来る、例えば標葉代々の当主は四郎、小四郎、平四郎、彦四郎、などが多く見える、隆連は平四郎、隆繁も平四郎、隆豊すなわち藤橋初代胤衡は小四郎、二代胤隆は彦四郎である 。そして三代胤泰は三郎だがその嫡子胤清は彦四郎、次男は小四郎、三男家胤は小三郎である。又隆義が左京太夫であった為代々左京亮や左ェ門尉、左ェ門介が多い、受領名は紀伊守、出羽守が多い、二代目胤隆の代に紀伊守を拝領しその後四代まで紀伊守を名乗る、出羽守は標葉氏によく見えるこれは標葉初代の父平成衡が清原氏の養子となり出羽国を一時期治めた為と思われる、そもそも後三年役がなければ出羽一国は標葉一族の領地である、その以前は常陸大棣、鎮守府将軍などが有る。清原氏との関連についてもう少し書いてみる、「桓武平氏諸流系図」という文書がある、現在まで伝えられる桓武平氏関係の氏族集成した系図の中で資料的に最も信頼性の高い物と言われているが、この資料は清原氏中心に書いたものと思われる、この系図によると武則(清原)の実父は安忠でこの系統が海東平氏と呼ばれている、恐らく真衡が成衡を養子としたことで清原氏を平氏に変えた物と思われる、これによると成衡は重衡の子になっているが多分成衡の祖父、忠衡の父繁衡の事と思われる。なお藤原秀衡の平泉館から発見された「人々絹給日記」に秀衡に極めて近い人物の名が列挙してある資料がある、その中に海東四郎の名があり成衡の縁者が秀衡の時代にも活躍していた事が解かる、恐らく成衡の四男隆義の標葉一族だと思われる。南北朝動乱期には標葉氏は南朝に味方している、標葉氏は相馬氏に対抗する意味もあり南朝側に付き各地を転戦している、しかし庶子家、氏族の中にも相馬氏と共に北朝側についた標葉教隆などがいる、この動乱には行方郡、標葉郡などがしばしば戦乱の舞台になっている標葉総家は二回北畠軍に属し西上し又庶子家を含めた一族が各地に転戦し戦死者や領内管理も大変だった様である一三四三年寄進の十一面観音像の胎内銘には標葉一族やその他郎党そしてその妻子を含めた二百数十名の氏名が記されている戦乱で命を落とした者の霊を弔う為に自ら寄進者に,連ねたものと思われる、この年から標葉氏は北朝側に属してる。南北朝動乱も終わる十四世紀末から十五世紀までは標葉氏も安定した領地経営をして海東方面で活躍するが相馬氏、楢葉氏、標葉氏、岩城氏、岩崎氏といった国人と奥州に勢力を植えようとする公方らの相互対立抗争の時代へとなっていく 。一四〇〇年頃には五郡の国人で「五郡一揆契約」が結ばれ相互の助力と争いの解決を約している、しかしそれも一五〇〇年頃には崩れ相馬氏、標葉氏、岩城氏の争いへとなっていく。


一四九二年標葉の本城権現堂を相馬氏がついに落城させた 。その落城の手引きをした最大の功労者が一族の標葉隆豊、泉田隆直である。この時標葉家の惣領清隆は老年、嫡子隆成は大将の器ではなかった。時に楢葉氏は岩城氏に滅ぼされ岩城氏の標葉征服が迫っていたこの状況で標葉内部に意見分裂があり一族の長老泉田隆直が相馬に頼り旧領はそのまま保証してもらい相馬一族に準ずる事を提案した 。すると相馬に内応する者が現れ一族は崩れていったやがて相馬が城を攻めてくると隆直は相馬に属し標葉隆豊は城内より城門の鍵を雪の上に落とし形を作り相馬方に渡した。そして隆豊の家臣は相馬の合図と共に城内に放火し清隆、隆成父子は城内本丸にて自刃、残兵のある者は逃れ又ある者は討たれた。十一代三百有余年にして標葉氏は滅亡する、しかし皮肉にも標葉、海東、平、の血は標葉氏を滅へと導いた標葉隆豊に受け継がれていくのである。標葉左京太夫隆義以来三百有余年標葉領は相馬領となった 。標葉隆豊の反忠に因り相馬は標葉領を統合した。相馬はこれを賞し特に相馬一族に准じ胤の字を許し本領藤橋邑から名をとり藤橋胤衡と号し又相馬氏の幕紋繋ぎ駒を幕紋に使用する事を許した 。これが藤橋小四郎出羽守平朝臣胤衡と藤橋氏の始まりで一四九二年現在から凡そ五百年前の事である。隆豊は標葉一族を裏切り敵国相馬に乗り換えたと標葉氏滅亡後相馬の人々に言われた 。隆豊の反忠として後々まで語られたが実の処隆豊の反忠と言うより標葉本家の隆豊に対する仕打ちが悪かったと思われる。隆豊の祖父隆連は標葉八代当主持隆の三男として生まれ標葉本家より分家し新山城(福島県双葉町)を築城以後三代に渡り居城する 。隆連の嫡子隆重の時標葉当主清隆は請戸城より権現堂に城を移した。この頃隆重は清隆の家臣、新谷、榛谷、両氏に遺恨を持ちこの二人を本条川の北に攻め新谷の子息を捕まえ川の中に投げ込んで殺してしまった。そこで清隆は大いに怒り隆重の新山城を攻め榛谷、新谷も一族を挙げて清隆と共に奮戦したので隆重は支えきれず遂に逃れて岩城氏に頼った 。その時嫡子隆豊は一人城から逃げるのに反対し落城まで奮戦した。隆重が逃れた後、一族の長老、泉田直隆の口添えにより隆豊は新山城に留め置き隆重の領地を受け継ぐ事を許されるがその石高は以前の三分の一になってしまった 。もしこの折なにも罪のない隆豊に父隆重の領地を全て渡せば隆豊もこの後相馬に味方して標葉氏を滅ぼす事もなかったと思われる 。本来隆重と新谷、榛谷の争いに清隆も中立の立場で話し合いをすれば良かったものを清隆は一方的に新谷、榛谷両氏の味方をした事が隆豊の謀反につながると思う、隆豊も領地を減らされ一族、家臣の間でも肩身の狭い思いをした様である。標葉氏が岩城氏に味方するか、相馬氏に準ずるか、意見が分かれた時も隆豊は最後まで意見を出さず相馬が攻めて来るといよいよ動き出した 。深々と雪の降る中隆豊は大鎧に身をまとい手には先祖伝来の「備前 国宗」の太刀を持ち「いざ出陣」と城を出て相馬氏に味方したのである、この隆豊の行動で標葉氏は滅亡する、その後、隆豊の「国宗」の太刀が藤橋家の運命を大きく変えてしまう(約百年後。


当家は標葉氏から藤橋氏と変わり相馬氏の家臣として戦国時代を駆け抜ける事となった 。藤橋家三代当主藤橋三郎紀伊守平朝臣胤泰は標葉同族の泉田胤重の次男として永正四年〔一五〇七年〕に標葉郷に生まれ藤橋胤隆の娘婿として養子になる。「相馬藩政史下」の戦功者氏名の所に「藤橋紀伊守胤泰、石上、谷地小谷、小佐井、金山各所城代を径す尚金山城を築きし軍功者」とかいてある 。伊具郡金山は伊達領の名のみにして政法及ばぬ所であったが、そこを相馬氏が攻め相馬領とした。そして金山に胤泰を留め置いた当時金山は荒れ果てた山城で胤泰は相馬氏の命を受け町造り、城造り、田畑の開墾までもやったそうである 。その成果あって金山は堅固な城となり城下は整備され石高も増え相馬領の拠点となった。しかしその後胤泰も老いて嫡子胤清そして次男胤長までも病死してしまい三男小三郎(家胤)は天文の頃わけあって出奔、そんな時に伊達と相馬の境に「一人残るは心細い」と義胤に訴えるも「藤橋紀伊の武勇は遠く伊達まで聞こえる」と言って聞き入れてもらえず仕方なく剃髪し単身藤橋邑に帰ってしまう 。義胤も最初は怒ったものの其れまでの胤泰の武功に免じてこれを許した。胤泰は藤橋邑で花を愛し余生を静かにすごした。 そんな胤泰も若い頃は馬上五十騎歩卒四百九十人 で二百七十貫の大身の大将で数々の武功をたてた。其のひとつに永緑の頃小佐井城の城代として八替七朗という侍が伊達輝宗の命を受け城を守っていた、ある時胤泰はこれを招いて宴応し相馬に帰順するように進めた、しかしなかなかにして首を縦に振らない、そのうち八替が酒に酔って寝たところを胤泰はこれを討って直ちに小高の相馬義胤に報告した 。そして相馬軍はいとも簡単に小佐井城を手に入れ胤泰を城主にした。石上城の敷地内に胤泰の墓がある天正七年七十四歳で没してから四百年間石上村の人々が守り続けたのである、胤泰が標葉郷から石上に居館の時に神明宮を遷座しているこの神明宮は石上城の跡に鎮座しているがこれは鹿島神社宮司の荒氏によって現在の場所に遷座されたものである明治以来は氏子二家で保管していたが昭和六十三年に八幡社に合祀するも祟りをなすと云う事で平成五年に現在の場所に遷座したのである。


相馬藤橋氏は胤泰の後小身になったものの四代続く、東奥標葉記によると胤清、胤長にも嫡子が存在しない、胤泰程の大身の侍の子息で在りながら嫁も子供も存在しないのはかなり考えにくい、恐らく何らかの理由で標葉記に出てこないのであろう、又実在したが標葉記を書いた隆重は胤泰の養子胤重の孫である為、胤泰の嫡孫の存在を標葉記に書かず自家の嫡流を主張したのかもしれない。 胤泰三男、小三郎は天文の頃相馬を出奔して其の訳は 諸説ある。

第一に小三郎(家胤)が馬で遠出した帰り道「新沼道海」と云う高僧とすれ違う、この時既に日暮れで薄暗く道海には小三郎と解からずそのまますれ違うと小三郎は「挨拶がない」と言い馬上より国宗の太刀で切り殺してしまった 。新沼道海とは相馬義胤お気に入りの僧侶でこれを殺したとなると大変な事である、いくら胤泰の子息でもまだ幼年で戦功の無い小三郎の切腹は逃れられない、そこで胤泰は今だ元服前の小三郎を直ちに親交のあった越後上杉に出奔させこの事件を嫡子胤清のした事とし相馬義胤に許しを乞 い胤泰、胤清二人の戦功は相馬家臣随一で義胤もこれを許した という説。

第二の説は小三郎は 胤清、胤長とは腹違いの兄弟であり(小三郎は後妻の子)母は天文の頃に兄2人に短刀で刺殺されている、その為に以後兄弟の争いが絶えず父胤泰が小三郎の身を案じ越後に出したという説がある。胤泰後妻(小三郎の母)が天文の頃に些細な事で胤清胤長と言争いになり刺殺された事が文献に残っているので第二の説の方が有力であると思われる。

越後に行くとまず上杉謙信(長尾景虎)に拝謁し、事の子細を全て話し剛胆さを買われ上杉家で一番の猛将、柿崎景家に預けられた。その後成長し川中島の合戦にて手柄を立て景家に「大胆にして冷静沈着な戦上手」と言わせた。また上杉家中からは「柿崎家に蔦之進あり」といわれ武家の功名を一身に受け柿崎家の守りとなった、蔦之進とは小三郎が越後に移ったばかりの頃今だ元服しておらず 景家が柿崎家の数ある家紋の中から「蔦紋」の一字を取り、名付けたもので晩年は景家の「家」と胤泰の「胤」を合わせ「家胤」と名乗っていた。家胤(小三郎)は元亀二年四十歳で没する、父胤泰より五年早くこの世を去る。其の嫡子隆家は父の跡を継ぎ 景家、晴家に仕えるが晴家が織田信長の策略により上杉家に誅殺されると晴家の無実を訴え上杉氏に城を明け渡さなかったと云う。その為か後上杉の領地替えにも従わず後の越後領主より捨扶持を与えられ江戸時代中期までは分家も出さず代々柿崎村に住んでいた。江戸中期以降は何家か分家を出すもそのほとんどが柿崎村に明治以降まで住していた。藤橋家初代「藤橋小四郎出羽守平朝臣胤衡」より十九代今も藤橋家の中に平氏、海東氏、標葉氏の血は続いている。