出来事の推移
1941年4月1日イラクでラシド・アリ・パシャが軍事クーデターを起こす。
イギリスはこれに武力で対抗、ラシド・アリはドイツに救援を
求めた。バルカンでの戦闘と
ソ連への侵攻準備で派兵の余裕が無いドイツは、5月9日より軍需物資を
仏領シリア経由でイラクへ空輸するに留めた。
だがこれはイギリスにドイツ機攻撃の口実を与え、シリアとレバノンの飛行場
が空襲された。そして6月8日イギリス地上軍はパレスチナとトランスヨルダンから
シリアとレバノンに侵入(
エクスポーター作戦)、仏英両軍は陸と空で
大規模な戦闘状態に入った。
その後6月20日にダマスカス、7月3日にパルミラを奪われた
フランスは負けを認め、7月12日に停戦が発効した。
中東の政治地図
第一次大戦後のトルコ帝国解体を受けて、中東地域は仏英両国が国際連盟の要請で
委任統治していた。イギリスはイラク王国独立後もイラク石油会社の
資本を半分以上握り軍を駐留させていた。
キルクーク油田からのパイプラインは、仏英のエゴで途中2本に分かれ、
イギリス向けはパレスチナのハイファ、フランス向けはレバノンのトリポリで
タンカーに積まれた。
パリ議定書:仏独戦争協力で前進
ドイツ機の
シリア通過については、5月5日より仏独両国で交渉が始まり、5月21日に
パリ議定書として調印された。
議定書では飛行場への発着と燃料の補給以外にも、港と鉄道の使用を認めていた。
もっともドイツ機は調印前の5月9日に既にシリアの飛行場を利用しているから、
いわば事後承認であった。
フランスはこの見返りに、シリアへの軍需物資、要員、対空砲、更に航空機
の増強を認めてもらった。
仏英陸上戦力
フランス軍は32,000名を数えたが、真に戦意の高いフランス人の精鋭は6,000名ほど
で、残りは現地人だった。
イギリス軍の兵力は8,000名で、
インド人とオーストラリア人を主力とし、自由フランスは後衛に回った。
フランス空軍主要機種の戦力増強と顛末
D520、MS406、M167F、LeO451、Potez63.11について、戦力の推移を
見てみよう。5月初め時点の初期戦力は5機種併せてわずか49機のみで、
D520とLeO451はまだ姿が無かった。
それから停戦までに143機が到着し、のべ戦力192機で戦ったわけである。
その内、戦闘や事故で102機が失われ、修理不能な24機を残し66機が本国や
北アフリカに撤退していった。
つまり放棄分を加えると2ヶ月で参加戦力の3分の2を失ったことになり、
もしこれ以降戦力の補充が無ければ、あと1ヶ月で全滅したことになる。
ただフランス空軍全体のポテンシャルから見れば、戦闘継続可能な戦力を
補充することはまだ十分可能であった。
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機種別保有・損失・補充状況
仏英両空軍の中東での保有機数比較
まず戦闘機同士を比べると常にイギリス側が優勢なものの、フランス側も
損失を適宜補充しており、絶望的な状況とまでは言えない。
爆撃機ではむしろ6月に入るとフランス側が数の上で優位に立つ。
しかし両空軍とも作戦展開エリアの広さと比べ、爆撃機の絶対数が不足して
おり、お互い相手の地上部隊に対する有効な打撃とはならなかった。
フランスの戦いから1年を経て、なお本格的な地上攻撃機は出現していなかった
のである。
なおここで使った保有機数の中には、作戦不能な状態の機体もふくまれており、
かならずしも実戦力とイコールではない。
損失の内訳
次に両空軍の損失の原因を比べてみると、
(1)空中戦では互角
(2)フランス空軍は空襲で壊滅した(戦力4割減)
(3)フランス機は事故が多い
ことが見て取れる。また対ドイツ戦の場合と同じくフランス対空砲部隊が
あまり仕事をしていないことも分かる。
つまりイギリス空軍は最小のリスクで最大の効果を挙げたわけだ。
イギリスが空襲に用いた手法は、主に戦闘機による機銃掃射であった。
補給体制
フランス軍の軍需物資補給は、空輸かトルコ経由の鉄道に頼った。
弱体なフランス空軍の輸送機部隊を補う為、エール・フランス
からドボアチン338が18機徴用されフランス本国あるいは北アフリカ
から、イタリアとギリシャ(ドイツが占領)の飛行場を経由してシリアとの間を往復した。
燃料に限って
いえば最後まで枯渇することは無かったが航空機部品は常に不足しており、
整備員達は使えそうなパーツを"半壊"状態の機体からむしりとって使いまわした。
また海軍力ではイギリスに圧倒されており、海上輸送が困難な状態を打破すべく、
ドイツ空軍のスツーカ出動を要請する検討もなされた。だがこれはさすがに
航空大臣のベルジュレが許可しなかった。
得られた教訓
フランス空軍は自前兵器
が時代遅れになりつつあることを身をもって知った。しかし
戦術面や体制の不備まで分析したかといえば、大いに疑問が残る。すなわち
今回の敗因も対ドイツ戦と同じく、空襲を許す防空体制と故障を頻発させる
品質管理・部品供給の問題、更に個人戦の伝統に固執した結果であるのに、
この先も同じ過ちを繰り返すからである。
片やこの戦いでフランス軍が敗北したのを見たドイツは、もはやフランスは
イギリス相手の防波堤にすらならないと考えるようになった。