出来事の推移
1940年1月9日の時点で、ドイツ軍の西方への攻撃開始は1月16日と決定
されていた。ところが1940年1月10日に侵攻計画書を積んだドイツの連絡機が
ベルギーに墜落し、全貌が連合軍に知られてしまう。更にこの冬は稀に
見る悪天候が続いたこともあって、春まで動けなかった。
この時期、ソ連とフィンランドの間で冬の戦い(1939年11月30日〜1940年3月
12日)が始まり、世界の目はそちらにも向けられた。時のフランスの首相
ダラディエはフィンランド支援を打ち出したが結局無策に終わり、3月20日には
辞任に追い込まれ、代わってレイノー内閣が発足した。
結局、1939年9月から1940年5月までに、フランスとドイツの間で本格的な軍事
衝突はなく、宣戦布告のまま睨み合いが続いた。フランスのジャーナリスト、
ローラン・ドルジュレはこの状態を「奇妙な戦争」と呼んだ。
(英語圏ではphony war:まやかしの戦争と呼ばれる)
小競り合い:フランス戦闘機対Bf109
その中でも両空軍の小規模な衝突はいくつか起こった。フランスの発表
によれば、フランス空軍は70機
のドイツ機を撃墜し、逆に74機を失った(対空砲火によるもの含む)。戦死者
は79名である。また事故により89機と78名を失っている。
戦闘機同士の対戦成績を見ると、Bf109に対してはMS406が11勝16敗、
H-75が28勝9敗で、カーチス・ホークの優位性が読み取れる。
ブロックMB152は1940年4月1日までに489機が生産されたことになっているが、
実戦稼動には至っていなかった。D520はまだ先行生産の域にあった。
ここで月別に詳しく見てみよう。
相手に対する戦果はプラス、被った損失はマイナスでプロットしてある。
左がMS406対Bf109、右がH-75対Bf109
ただし、数字はフランス側の記録によるもので、ドイツ側の損失発表との突合せ
は行っていない。
生産と配備は進んだか
1939年9月から1940年5月までの生産計画と実績の推移を見てみよう。
右肩上がりの意欲的な計画に対して、実際の生産が全く追いついていない
のが一目瞭然である。
(1939年9月の生産計画は不明)
生産遅れの原因は何であろうか?労働力については、開戦当時の10万人程度
から最終的には敗戦(1940年6月)の時点で25万人にまで増強されている。
当時の推進責任者によれば、製造の遅れの原因は労働者が
軍備の必要性を真に理解せず労働意欲が低かったこと、
また共産主義者によるサボタージュがあったから、と述べているが
それだけではないだろう。飛行機には
エンジンは元より、過給機、照準器、プロペラ定速装置など熟練者による
加工を必要とする精密部品が多い。
単に非熟練工だけを増やしても、精密部品加工がボトルネックになって生産が
滞ってしまう。また機体そのものが製造しやすい構造かどうかも大きく
関わっていた。この点は今後の研究課題にしたい。
また工場をロールアウトしても直ちに空軍のデポに納入された訳ではなかった。
特に冬場は悪天候で配送が妨げられた。逆に言えば天候の変化に左右される
ような配送システムだった訳である。
更にデポから前線の部隊に機体が渡るかどうかはまた別問題であった。