フランス空軍最後の戦い

出来事の推移
1941年12月8日、日本が真珠湾を攻撃し、これに合わせて独伊もアメリカに 戦線布告した。
1942年5月5日、イギリス軍が仏領マダガスカル島を攻撃 (アイアンクラッド(装甲)作戦)、 11月6日には全島を占領する。 そして11月8日、米英連合軍が北アフリカのアルジェリアとモロッコに上陸( トーチ(松明)作戦)、10日に現地フランス軍は 戦闘を停止し、連合軍を迎え入れた。
これを見たドイツ軍は11月11日に休戦ラインを超えてフランス南部へ進駐。 そして11月27日、全保有機を押収されたフランス空軍は消滅した。

マダガスカルが狙われた理由
日仏がインドシナで軍事協定を結んだ為、 フランスがマダガスカル島を、日本海軍の潜水艦補給基地として提供する 恐れが出てきた。これはイギリスのインド洋安全確保にとって大きな脅威となる。

マダガスカルの航空戦
航空兵力は最初から話にならない差があった;
・フランス空軍:MS406とPotez63.11合わせて 22機程度。爆撃機なし。他はPotez25など
・イギリス海軍:グラマン・マートレット、フルマー、シーハリケーン、 ソードフィッシュ、アルバコア合わせて 86
戦闘開始から4ヶ月後、フランス側にはMS406が4機とPotez63.11が3機残るのみで、 事実上壊滅した。


トーチ作戦:両陣営の航空戦力
連合軍は空母11隻に344機の艦載機が参加した。対するフランス軍はアルジェリア とモロッコに380機、チュニジアに80機を配備していた。
左の図は両陣営の戦闘機と爆撃・雷撃機の戦力ポテンシャルを示す。
数量だけ見ると、ほぼ拮抗していることが分かる。また連合軍は戦闘機の割合 を高めて、上陸部隊の制空に重きを置いている。

戦闘顛末
戦闘は実質2日目で決着した。フランス陸軍は早々と武器を棄てたが、空軍 と海軍は最後まで激しく抵抗した。特に海軍の被害は甚大で、死者は1,000名 を数え12隻が沈没、その他の艦艇も大損害を受けた。
また空軍は寿命の過ぎたD520とH-75でF4Fやシーファイアに立ち向かい、それ なりの戦果(29機)を挙げたが犠牲も大きく、空軍全体で44名が死亡した。 何より保有機の大半を地上で撃破もしくは捕獲され、ほとんど反撃らしいこと もできずに戦闘力を失ったのである。

ドイツ空軍と共闘か?
連合軍上陸後すぐ、仏独空軍が共同で 連合軍に立ち向かう案が検討された。フランスは北アフリカの軍事行動では イニシアチブを握っておきたかったのだ。 しかしフランス本土からの増援は認められず、結局ドイツ軍はチュニジアの 飛行場を独占しフランス機は撤退させられた。もはやドイツはフランスの力 など完全に当てにしていなかった。14日に上陸したチュニジアのドイツ軍が 降伏するのはこれから半年後である。

生かされなかった教訓
フランス空軍はまたもや地上で壊滅したのであった。 第一線配備400機少々と後方任務(連絡、訓練他)用300機合わせて700機強 の保有機の内 3分の2を失い、その殆どは空襲又は基地を占領されることで失われた。 例えば11月9日は空戦で5機が撃墜される傍ら、空襲で47機を失っている。
(ところで占領した飛行場でカーチス・ホークを見つけたアメリカ兵の心境は いかがなものだったろうか)

フランス空軍は2年半前のフランスの戦い以降、各地で様々な戦闘を経験し、 装備の不利を克服してよく戦ってきた。だが空襲をみすみす許す体質だけは最後 まで変わらず、敵(ドイツも連合軍も)に楽をさせてしまった。

空軍消滅後の空の守り
新しい組織は1943年3月27日に発足した。 その役割は鉄道防衛の対空砲部隊、ドイツ民間機の為の航空管制と気象観測、 空襲に対する早期警戒と火災消化であった。 これら全ての活動や通信 はドイツ軍の厳密な監視下に置かれた。彼らはこのような窮屈な体制をフランス解放 まで1年半に渡って続けてゆくのである。
=>組織図

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