出来事の推移
もはやドイツ軍の勢いを止める手立ては無く、各地の道路は避難民であふれ
かえった。フランス政府はパリから
大西洋岸のボルドーへと避難し、ドイツ軍は14日に難なくパリへ無血入城した。
この非常事態に、第一次大戦の英雄ペタン元帥を長とする戦時内閣が成立、
さっそくドイツとの講和を模索し始めた。
また6月10日にはおこぼれを狙うイタリアがフランスに宣戦布告し、
アルプス南部から侵入を企てたが、フランス軍に押し返された。
6月22日、遂にドイツと休戦条約が結ばれ(イタリアとは24日に締結)、
25日午前0時をもってフランス軍は武器を置いた。
==>休戦までの舞台裏
戦闘機隊の奮闘
地上での惨敗にもめげず、フランス戦闘機隊はむしろ善戦していた。
戦闘で370機(内47機は対空砲火)を失うものの、公認で600機、
未確認を含むと700機以上を撃墜している。
しかしフランス戦闘機隊と周囲の抱える問題は、自らを不利な立場に追い込んでいた。
・弾が出ない!!
絶好の射撃位置についたのに、機銃が故障して戦果を逃したケースは数えられない
ほど多かったようだ。これは特定の機種に限らず、爆撃機の防御機銃などでも
発生した。
・貧弱な通信装備
一応無線機は積まれていたが「いつものように」故障し、機体間
の意思疎通は翼を振るなどの身振りに頼っていた。またこのことは基地からの
航法指示も受けられないことを意味し、おかげで護衛すべき爆撃機と合流
できないことも良くあった。
・早期警戒網の不備
フランスは何度もドイツ爆撃機に飛行場の奇襲を許している。友軍の地上部隊
が上空を通過するドイツ機を認めても、直ちに基地へは伝わらなかった。
この為、せっかくの迎撃の機会を逃してしまうのである。
・鈍重な編隊編成
ドイツ空軍戦闘機の編隊は2機(ロッテ)を基本
単位としていた。これは機動性と後方の安全を確保できる優れた戦法で
あった。対してフランスは(イギリスも)見た目は美しい3機
編隊(パトロウィーユ・サンプル)を相変わらず続けていた。
この編隊では隊形の維持に気をとられ、近代戦闘機同士の空戦
にはもはやついていけなかった。
・フランス人の個人主義
実は編隊の隊形自体は問題ではなかった。なぜならフランス人パイロット達は
戦闘に入ると各自
勝手に格闘戦を始めてしまい、編隊など関係なくなるからである。
大抵は戦闘開始直後に僚機を見失っており、帰投もバラバラであった。
不幸なことにこの性癖は第二次大戦が終るまで治らなかった。
北アフリカへの集団疎開
ドイツとの休戦交渉が始まる傍ら、空軍は可能な限りの機体を北アフリカ
(当時フランス領だったモロッコ、アルジェリア、チュニジア)へと避難させた。
6月20日からの5日間で、戦闘機10個飛行隊、爆撃機18個飛行隊、偵察機9個飛行隊、
その他観測機、輸送機多数から成る大移動だった。
戦闘機の内訳はH-75が128機、D520が119機で、MS406とMB152は航続距離が足らず
地中海を渡れなかった。(最短距離は700km弱。当時は落下増槽など無かった)
休戦協定の内容
フランス本土は北半分をドイツが占領し、南をペタン内閣が
統治した。政府は中部の温泉町
ヴィシー(リヨン西北西120km)に移り、
形の上では独立国であった。従って各国とも通常の外交関係を継続した。
また海外領土は手付かずで残され、フランスは依然として「帝国」であった。
陸海空の軍隊は直ちに動員を解除され、武器と施設は全て枢軸国の監督化に
置かれた。
空軍は9月1日までに全ての機体を武装解除し、更にはプロペラやエンジン、
車輪までも取り外すよう命じられた。これでは事実上の空軍解体通知である。
また本土では連絡および気象観測以外の飛行は禁止された。
注:休戦は降伏や講和とは違う
休戦とはあくまで戦闘停止であって、平和条約を締結するまでの暫定措置に
過ぎない。また無条件降伏とも違い、戦後処理は両国間の合意に基づいて
決める。もっともフランス側に抗議する余地はほとんどなかったが。
(休戦協定の内、軍備に関する条項=>明細)
損失の意味
5月10日時点の初期戦力に対する損失の割合を求めてみると、
フランスはやはりひどく消耗したことが分かる。
ドイツの損失もそれなりの数に登るものの、補充可能な範囲内であった。
イギリスの初期戦力にはイギリス本島配備も含んでいるが、それでもかなり高い。
実は大陸に派遣した部隊だけを見れば、損失率はなんと139%にも達してしまう。
ある意味、
イギリス空軍はフランス以上に惨敗したといってよい。
次に初期戦力に対する損失の原因別割合を見てみる。
(イギリスは詳細不明なので除く)
注目すべきはフランス機の方がより多く(絶対数で比べても1.7倍)
対空砲火の餌食になっている点である。
ここで爆撃機の割合はドイツ軍の方が多かった
ことを思い出して欲しい。戦闘機より爆撃機(地上攻撃機)の方が対空砲火
を浴びる可能性は高い。にもかかわらずドイツ機の損失が少ない
ということは、
フランス軍の対空砲火がいかにドイツ機を落せなかったか
が分かる。空襲の被害を受けながら敵機を落せなかったフランス軍飛行場の
防空部隊の責任は重大である。
フランス空軍は本当に負けたのか
では休戦時(6月25日)の残存戦力を開戦時と比べてみよう。
意外にもフランス空軍はまだ健在だったのである。1,000機を失いながらも
戦闘機と爆撃機はそれに見合う数が補充されており、しかもD.520やLeO451
等の近代機が主力となって質はむしろ向上していた。偵察機だけは損失が回復
することはなかった。
(もっとも陸軍が敗走中では直協機など必要ないだろうが)
ただ休戦に向けて残存機は北アフリカに大挙移動中であり、ドイツ軍と対峙
する戦力という点ではもはや大して残っていなかった。
結局「フランスの戦い」は、航空機の投入と消耗の規模で言えばバトル・オブ・
ブリテンに匹敵する戦いでありながら、陸上で勝負が決してしまったのであり、
空軍はそれなりの戦力を保持したまま休戦を迎えたのである。