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1054年、ノーサンブリアの指導者シグール(=シワード)は、エドワード
王の命により大軍を率いてスコットランドに侵入し、スコットランド王マクベス
に戦いを挑んだ;王は逃亡し、エドワードに命じられた通りマルコムを王に
据えた。
1036、1037、1038、1039、1040、1041、1042、1043、1044年は記録すべきことは
なかった。
1063年、北ウェールズの王グリフィズ(・アプ・ルウェリン)が自ら
の民の手で殺された。その首は装身具と共に太守ハロルド(・ゴッドウィンソン)の
元へ送られた。ハロルドはそれを即座にエドワード王の元へ届けた。
エドワード王はグリフィズの2人の息子(*1)に領地を授けた。1064年のことであった。
1066年、敬虔な面影のイングランド王エドワードがこの世を去った。
存命中は彼こそイングランド人民の名誉と栄光であり、その死と共に全ては
潰え去った。
ゴッドウィンの息子ハロルドが王国を引き継いだ。王はノルウェー王ハラルド・
ハルファガル(ハードラーダ)とスタンフォード・ブリッジで戦った;
勝ったイングランド軍はノルウェー軍に大損害を与え、敵は全て敗走した。
この敗走者の中に、イスランドYsland(アイスレーIslay?)のハラルド・ザ・ブラックの
息子ガトレッドGodred、通称クローヴァンCrovanがいた。彼は当時マン島を治めていたシトリック
Sitricの息子ガトレッドを頼り、大歓迎された。
同じ年、庶子ウイリアムがイングランドを征服した;彼はハロルド王を殺し
て王位を奪い、イングランド人民を永遠の奴隷におとしめた。彼は20年と11ヶ月
の間イングランド人民を支配した;彼の後は息子が継いだ。
1070年、スコットランド王マルコムがクリーヴランドに至るまで
イングランドを略奪してまわり、マーガレットを王妃とした。
同じ年、シトリックの息子でマン島の王ガトレッドが死に、息子のフィンガル
Fingalがその後を継いだ。
1079年、いよいよガトレッド・クローヴァンが大艦隊を率いてマン島に
襲来した;彼は土地の男達と戦ったが敗れて逃走した。再び彼は兵と船を集めて
マン島に来てマンクス達(*2)と戦ったが、敗れて逃げ帰った。3度目、彼は大軍
を率いてラムジーRamseyの港に夜来し、スカイ・ヒルSky Hillと呼ばれる山の上
の斜面にある森に300名を潜ませた。夜明けにマンクス達は戦闘隊形をとり、
ガトレッドに猛攻撃を仕掛けた。戦いが熾烈を極めているとき、300名の兵が
潜んでいた場所からマンクス達の背後に現れ、抵抗の望みを絶った。そしてマンクス
達は逃げざるを得なくなった。
今や彼らは敗北を認めどこにも逃げ場を失った。ラムジーの河口には潮が満ち
、反対側は敵に押しまくられていたからである。残された者達は命を助けてくれ
るようガトレッドに泣きすがった。かつて彼らの世話になったガトレッドは
これに同情し哀れみを覚え、軍を呼び戻してこれ以上の追撃を止めさせた。
翌日、ガトレッドは部下達に選択を迫った。マン島の領地を皆で配分して住み
続けるか、あるいは全島を略奪したのち国に帰るか。兵達は島全体を荒らして
戦利品で懐を膨らませてから、国へ戻る方を喜んだ。ガトレッドは
その一方で自分と暮らしたことのある少数の島民に島の南半分を与え、北半分
は残りのマンクス達に与えた。その際の条件で、自分が相続の権利を持つ
いかなる土地に対しても、彼らには今後一切異議をとなえさせないことにした。
それ以来現在に至るまで、島全体が王ただ一人の領地となり、あらゆる税も
王のものなのである。その後ガトレッドはダブリンとレンスターの大部分を
支配下に収めた。またスコット人(アイルランド人?)を服従させた。彼らは
船や小舟を造るとき3本以上の金釘を使おうとしない人達である。王は16年間統治
し、アイスレーという島で亡くなった。
彼には3人の息子がいた。
ラグマンLagman、ハラルドHarald、そしてオラフOlafであった。
長男のラグマンが王国を継ぎ7年間統治した。ところが弟のハラルドがしばらく
の間反旗を翻した。ハラルドは最後にはラグマンに捕らえられ、性器と目をえぐり
出された。この後ラグマンは弟の目を潰したことを悔やみ、自発的に王位を
棄てた。彼は主の十字架を抱いてエルサレムへの巡礼を行った。しかし道半ば
で帰らぬ人となった。
1093年、スコットランド王マルコムがイングランド人に殺された;
ダンカンが後を継いだ。同じ年、聖なる面影のスコットランド王妃マーガレット
が亡くなった。
1095年、ラグマンの死を知った全諸島の貴族はアイルランド王
ムィルヘアルタフ・オブライアンMuircheartach O'Brienに使節を送り、
ガトレッドの息子オラフが年頃になるまで摂政を任せられる有能な人物を、
王の家臣の中から遣わしてくれるよう頼んだ。王は大層喜んで同意し、
タウグTadhgの息子ドナルドDonaldを送った。王は彼にあらゆる愛情と節制
をもって国を治め、自分の物とはしないよう戒めた。だがドナルドは
到着するや主君の訓戒など顧みず、大いに暴虐を働き国を辱めた;彼は数多く
の犯罪を犯し、無慈悲に3年間も統治した。遂に諸島中の首長達が一致団結
して立ち上がり、彼を追い出した。彼はアイルランドに逃げ二度と戻って
来なかった。
1098年、キトーの聖マリー修道院が建立された。キリスト教徒が
アンティオキア(*3)を奪い、彗星が現れた(*4)。彗星は時折現れる星であるが、
中でも王が亡くなるときや信仰が崩壊するときに際立って見られる。
同じ年、サンワットSantwatでマンクス同士で争いがあり、北部の住人達が
勝利を収めた。両陣営の指導者オッターとマクマラス太守は戦闘の中で斬り
倒された。
同じ年、ハラルド・ハルファガル(ハードラーダ)の息子オーラーヴの息子である
ノルウェー王マグヌスは、王にして殉教者の聖オーラーヴの亡骸が朽ち果てた
か否かを見極めたく思い、墓を暴くよう指示を出した。修道士や聖職者が反対
したにもかかわらず、王は自ら大胆にも墓に近寄り王の権威を振りかざして
霊廟を開けさせた。王が自らの目で見て、自らの手で触ったところ、遺体は
全く害われていなかった。王は突然恐怖に襲われ、大慌てで立ち去った。
次の日の夜、王にして殉教者の聖オーラーヴが夢に現れてこう言った
「次のどちらかを自分で選ぶがよい。30日の内に自らの王国と共に命を落すか、
あるいはノルウェーから立ち去り二度と戻らぬかを」
眠りから覚めた王は首長や長老達を呼び集め、夢に見たことを語った。
彼らはできるだけ早くノルウェーから立ち去るよう心配して忠告した。
そこで直ちに彼は160隻の艦隊を集め、支配下に置いたばかりのオークニー諸島
へと向かった。あらゆる島々を通過しながら服従させていき、とうとうマン島
にまでやって来た。彼がセント・パトリック島に上陸したとき、たった今まで
マンクス同士が戦っていた戦場が目に入った。多くの切り刻まれた死体が未だ
埋葬されず横たわっていたからである。島のあまりの美しさに目を奪われた彼
は、そこに住むことに決めた。彼はその場所に砦を築き、今日まで彼の名が冠
されている。彼は砦を造る為にギャロウェイの住民に強制して
木を切らせ海岸まで運ばせた。彼はウェールズのアングルシーに足を伸ばした。
そこには太守として2人のヒューゴーがいた(それぞれチェスターとシュルウズベリー
の太守);彼は1人を殺し、もう1人を追い出して島を自ら治めた。
ウェールズ人達は彼に多くの貢物を差出し、彼がマン島に戻るのを見送った。
マグヌスはアイルランド王ムィルヘアルタフに自分の靴を送り、クリスマスの
日に自分の使者が見守る中で、それを肩に担ぎながら部屋の真中を歩くように
と指示し、これにて彼が自分へ臣従したことを認めると言った。これを聞いた
アイルランド人は大層傷つき、深く憤った。だが王はもっと思慮深く判断し
こう言った。
「マグヌス王にアイルランドの例え一地方でも破壊されるくらいなら、
私はこの靴を担ぐどころか食べることもいとわない。」
彼は与えられた指示通りにこなし使者に敬意を払った。彼はまたマグヌス王に
多大な贈物を送り、和平を結んだ。だが使者は主人の元へ戻ると、アイルランド
の景観とその美しさ、豊かな作物と温暖な気候について語った。
これを聞いたマグヌスは、どうやって全アイルランドを支配下に収められるか
だけを考えた。そこで艦隊に出動準備を命じた。自ら16隻の艦隊の先頭に立ち
新たな領土を捜し求める野望に燃えていた;彼は不注意にも船を離れたところを
アイルランド人に取り囲まれ、率いた兵のほとんど全てと共に殺された。
彼はダウンのセント・パトリック教会の隣に葬られた。彼の死を知った諸島の
首長達は、ガトレッド・クローヴァンの息子オラフに使いを出した。以前にも
登場したこの男は、当時ウイリアムの息子でイングランド王のヘンリーの宮廷
で暮らしていた。首長達は彼に島へ戻ってくるよう頼んだ。
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(1200年以降はただ今製作中!)
(訳注)
*1.実際はグリフィズの異母兄弟の、リワロンとブレディン
*2.Manxmen:マン島の住民
*3.Anthiochiaトルコ=シリア国境の古代都市
*4.9月29日から15日間観測されている
大英図書館蔵 ジョージ・ブロデリック英訳「Cronica Regum Mannie et Insularum」より抜粋
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