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これよりマン島および諸島の王達および司教達、並びにイングランド、
スコットランド、ノルウェーの幾人かの王達の年代記を始める。
1016年、我が主の顕現年(*1)、スヴェインの息子であるカヌート王が全
イングランドの主権を手にした。その後、世継ぎのエドウィンが殺されたとき、
王はエドマンド前王の双子エドマンドとエドワードをスウェーデンの王の元に
送り殺させようとした。しかし王は無垢な少年達を殺すに忍び難く、彼らを
ハンガリー王ソロモンの元へ送った。やがてエドマンドはその地で生涯を終えた。
エドワードはドイツ皇帝ハインリッヒの娘アガサと結婚し、3人の子をもうけた。
娘マーガレットは後にスコットランドの王妃となり、クリスティーナは尼僧となり、
息子エドガーが嫡男となった。カヌート王はエマと結婚し2人の子をもうけた。
息子ハルディカヌートは後にデンマークとイングランドの王となり、娘グンヒルド
はローマ皇帝(=ドイツ皇帝)ハインリッヒの王妃となった。
1019年、イングランドとデンマークの王カヌートはデンマークへ赴き、
晴れ晴れと冬を過ごした。
1020年、イングランド、デンマークおよびノルウェーの王カヌートは
(イングランドへ)帰国した。
1030年、ハラルド王の息子で、カヌートが放逐した聖オーラーヴ王がノルウェーに
戻り、不条理にもノルウェー人に殺された。彼は栄光ある殉教者と称えられ
主の元へと旅立った。
1031年、カヌート王は華麗なる行列を伴ってローマへ向かい、サン・ピエトロ寺院
に莫大な金銀の贈物を奉納した;王は教皇ヨハネスより、イングランドの神学校の
免税を賜った。
1032年、王にして殉教者である聖エドマンドの教会が奉納された。その中でカヌート王は
司教達と修道士達を集めて、今後は教区司祭および独立修道士(*2)となるよう説いた。
同じ年、消すことのかなわぬ火がイングランド中の多くの場所を焼き尽くした。
1034年、スコットランド王マルコムが亡くなった;彼の後はダンカンが王国を
継いだ。
1035年、イングランド王カヌートは死ぬ前に息子のスヴェインにノルウェーを
任せた;デンマークはエマとの子ハルディカヌートに任せ、イングランドは
ノーサンプトンのエルヴィナとの子ハロルド(ヘアフット)に任せた。その後11月13日に
カヌート王はシャフツベリーにてこの世を去った。亡骸はウィンチェスターの
古い修道院にてふさわしい儀式で葬られた。しかし間もなくイングランド王国
はハロルドとハルディカヌートの間で分割された。同じ年、ノルマンディー公
ロベールが亡くなった。その息子の庶子ウイリアムが子供ながら後を継いだ。
1037年、マーシアとノーサンブリアの王ハロルドが全イングランド
の王として選ばれた。弟ハルディカヌートはあまりに長い間デンマークで過ごし
ていた為、脇に追いやられた。
1040年、ハロルド王がロンドンで亡くなり、ウエストミンスターに葬られた。
その後はハルディカヌートが継いだ。
1046年、聖オーラーヴ王の息子でノルウェー王のマグヌスがデンマークを征服し
統治下に置いた。デンマーク王スヴェインは逃走した。
1047年、マブヌス王はスヴェインと戦いこれをデンマークから追放して
国を治めた。だがその後間もなく王は死んだ。
1048年、スヴェインが再びデンマークを取り戻し、シガード王の息子
ハラルド・ハルファーグ(ハードラーダ)がノルウェーを手に入れた。ハラルドは聖オーラーヴ
と母を同じくする兄弟で、マグヌス王の叔父である。ハラルドは使者を通じて
イングランド王と和平を結んだ。同じ年、大地震が起きた。
1050年以降へ続く
(訳注)
*1.AD1000と混同している
*2.ローマ教会から独立し、どの宗派にも属さないようにした
大英図書館蔵 ジョージ・ブロデリック英訳「Cronica Regum Mannie et Insularum」より抜粋
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