File131 GIZAアルバム詳細評論〜竹井詩織里編序章


当サイトにおいて私はGIZAをかなり批判している。ただし、それはパッシングとか嫌いだからといったものではなく、好きが故の、つまりは「愛情の裏返し」が故の行為と捉えていただけたらと思う。
では、何だかんだいいつつも、何故GIZAを含めたビーイング系列のアーティストが好きで聞き続けているのだろうか?。
それともう一つ。エイベックスや東芝、ソニーといったレコード会社とは違い、ビーイング系列に関しては、そこに所属している「1アーティストだけが好き」という人は少なく、「複数のアーティストの熱心な支持者」になっている人が非常に多いように思う。これも何故なのだろうか?。それは、ビーイングやGIZAのアーティストを好きなファンに共通する、そうさせてしまうだけの何らかしらの共有概念、つまりはこれらファンを惹き付けてやまない何らかしらの魅力なり要素なりがあるからではないだろうか。それが一体何なのかと考えたとき、

「よいメロディー(曲)」
「そのよい曲の魅力を最大限に生かす声質」
「メロディーと声質のよさに引けを取らない端麗な容姿」


という結論に達した。時代や流行が変わっても、91年にデビューした「ZARD」以降、ビーイングに所属するアーティストらによって脈々と受け継がれてきた「伝統」であると、私は考えている。そしてそれは、この集団を業界において特殊な存在たらしめるとともに、一勢力として認知される大きな理由にもなっているといえるだろう。

しかし、98年から始まったGIZA時代が5周年を迎えた2003年あたりから、どうもこの伝統の体現ならびに継承が上手くいっていないのではと感じるようになる。特に非自作アーティストにおいて・・・。
容姿と声質に関しては、忠実に伝統を継承し抜群なれど、愛内・三枝・北原らの曲において、かつてのようなメロディーのよさや、曲の完成度の高さを感じなくなってきた。それは過去の他事争論を読んでいただけたらと思うが、総じて「大野曲の質の低下」と「大野以外の作曲家の作る曲の問題」に理由の殆どがあると考える。
また、このことに加えもう一つ考えるべき重要な要素として、「GIZAらしくないアーティストの登場」がある。「スパークリングポイント」「高岡亜衣」「ジュエリー」は、容姿や声質、曲調に関して「いい悪い」ではなく、「GIZAらしさ」というものをかつてのアーティスト程には感じない。個人的な思い込みではあることは否定しないが。
一方GIZAの柱となっている倉木・ガーネットクロウ両名は、共にすばらしい音楽を提示しているものの、常に進化・変化をしている無限の音楽性は既にGIZAの範疇に収まりきるものではない。
さらに、GIZA王道の魅力を見せ付けている上原は一向に表立った活動が見られず、また、昨年すばらしい作品を送り出した菅崎も受験と高校生活が重なり、曲を出せないでいる。
こう考えたとき、まさにGIZAの王道を体現しているのは、自作で小松未歩、非自作系で岸本早未となんともさびしき状況になっているといえるだろう。上にも少し記したが、やはり致命的なのは非自作系の少なさ。ビーイングの強みが基本的に、詞・曲・編曲の分業製作とそれらの高度な融合による完成度の高い曲の提示にあることから、その絶対条件たる曲と歌い手の問題は、GIZAの存在意義そのものを否定しているといえる。2001・2002年と比べ、GIZAが音楽市場において存在感を示せないでいるのには、やはりこのことがあるからであろう。何だかんだいっても熱心なファンであり続けている私にとって、ここ数年のGIZAの状況に、フラストレーションがたまる一方である。
しかし、2004年、そんな鬱屈した思いを払拭する1人のアーティストが登場する。それが今回取り上げる竹井詩織里である。





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