File110 宇多田VS倉木論 第2部B


倉木の曲を聞いていて思うのは、自分で曲を作っているわけではないのに歌と曲との一体感を強く感じることである。
柴田・鬼束・Fayray・熊木・宇多田といった自分で曲を作っているアーティストは、どの曲においても歌唱と曲とが高度の次元で融合している。音楽的力量もさることながら、自分の歌唱技術や特性を自分なりに理解しているからこそ、できることであろう。自作アーティストの最大の強みといっていい。しかし、曲提供を受けているアーティストは、歌い手と作り手それぞれに意図があることから、多かれ少なかれ、程度の違いこそあれ、曲と歌との間に微妙なずれが生じてしまう。これを問題にさせないレベルに達している人は、業界でもごく少数ではないだろうか。一青窈もその一人だと思う。他には竹井詩織里、菅崎茜らもそうであるが、このことに多様性という要素を加えたとき、倉木と比肩できるものはいないように思う。あえて次ぐ存在を挙げるとしたら、上記菅崎、melody.、島谷ひとみであろう。但し島谷は前回示したように曲の質の問題があるので、資質ではともかくそれ以外の部分で倉木の相手にはならない。今までに歌ってきた曲種を考えると歴然としている。多様性・柔軟性・一体感はそれぞれがそれぞれと密接な関係にあるのだ。

何故に倉木だけが突出していると感じるのだろうか。それは、もちろん大野や徳永といったGIZA作曲からが倉木の特性をきちんと考えた曲作りができているから、ということもあるが、それ以上に倉木の歌い手としての力量〜生まれ持った能力=倉木の歌唱に「枠」のなさにあると、私は考えている。つまりは倉木にあわせた曲作り云々というよりも、与えられた曲に倉木が完全に適応している側面の方が圧倒的に強いということだ。
このことは他事争論File94「宇多田VS倉木論D」でも記したが、もう一度記す。
歌い手には音域とか声量といった物理的技術的側面もさることながら、それ以上に声質とか歌いまわしによって歌うことのできる曲に制約をうける場合が多い。歌が上手い下手以前に、例えばだみ声の歌い手にぶりぶりアイドルソングを歌わせることはできないし、歌わせても支持されるわけがない。竹井詩織里ような繊細な声質や歌いまわしを信条とした歌い手にゴリゴリのメタル曲が歌えないのも同様。
倉木の多様性・柔軟性、高い適応力を生みだしているのは、物理的技術的制約以外の、声質や歌いまわしに基づく制約において、それが非常に少ないということにあると考える。1stアルバムを聞いていて、私は「この子の柔軟性は本当に凄いな」と思った。従来のR&Bに対する固定概念をもやぶった今作と今作での倉木の歌唱は、それこそショックといってもいいだろう。自分の周りでも当然の如く生じていた当時の宇多田一辺倒の風潮の中で、自分ひとりだけが倉木派として弁舌を振るっていたが(相手にされなかったけど)、それにはこのことがあるからだ。自身の資質に加え、曲にも恵まれている倉木の多様性・柔軟性・一体感に比する存在は、現時点では存在しない。(将来的には恐らくBOAとmelody.がライバルになるであろうと予想しているが)。
倉木の歌唱を例えるに最も適したものは「水」。水は固体にも液体にも気体にもなり、固体液体ともに水を収容する容器の形にあわせて存在することが出来、かつ命を育む基本的な要素であるにも関らず、モノ洗浄やモノの切断・研磨にも利用することがきる。恐るべき存在だ。
かのブルース・リーは自身の作り上げた武術、ジークンドーの理念を水に例え説明した。「友よ、水になりなさい(do as the water)」はそれを象徴する有名な言葉である。また、「無法をもって有法となし、有限をもって無限をなす」という言葉も残した。形あるもの、つまりは己が肉体の鍛錬をもって、どんな攻撃にも、どのような事態にも即時に対応できる水のような柔軟性をもつ無限の存在へと変えていくということだ(私的解釈)。倉木の歌唱を聞いていて、ブルース・リーの思想を思い出すと共に、その何者にも囚われない歌唱に対し、「水」を感じずにはいられない。

さらに倉木の魅力として感じることに、倉木は生まれもって有したこの資質に慢心することなく、頼ることなく、自作の詞に多々込められている「がんばること、努力することの大事さ」を身をもって示していることがある。鍛錬を繰り返し、作品ごとに自己の歌唱を進化させ、歌える曲種を増やし続けている。最新作「明日へ架ける橋」カップリング「愛をもっと」でもそのことを感じ取ることができる。
このことは対抗的存在の宇多田や中島からは全く感じ取れない要素であろう。私は彼女らを出てきた当初から高く評価しているものの、同時にデビュー時からの進化成長をさほど感じ取ることが出来ない。高い資質に恵まれているが故に、それを進化発展さそうという気持ちが希薄になり、それが彼女らの成長を大きく妨げる要因になっているからだろう。
スポーツでもそうだが、背が低いとか腕力がないとか喘息持ちいった他者に比べて不利な状況にあるものが、それをばねにして、その不利な状況を克服するためのトレーニングや、それを通じて自身の新たな魅力に気付くことにより、自分より身体条件や才能に恵まれているものを打ち破るというケースが多々ある。相撲の舞の海、競輪の中野、女子バレーボールの竹下や高橋、ゴルフの田中秀道ら、挙げていったらきりがない。恵まれすぎた才能や環境は、本人に問題を問題として認識させないぬるい状況を作り上げてしまうという危険な側面があるのだ。
倉木は宇多田という天才と常に比較される運命にあり、また主としていたジャンルの関係上、MISIAや小柳といった歌唱技術に秀でた面々とも比較され、叩かれることが多々あった。それは恐らく倉木自身も重々理解していたことだろう。技術勝負で彼女らに真っ向から挑んでも勝てないということを倉木も社も理解していたからこそ、「じゃあどうしたらいいのか」ということを考えたのだと思う。「聞き易くなじみ易いR&Bの提示」「1stアルバム以降のシングル曲〜2ndアルバムに至る音楽性の変化」「3rdのコンセプトアルバム」はこのことの象徴ととれよう。
小柳をはじめ、宇多田・倉木と同時期にでてきた、「R&Bアーティスト」が現時点において殆ど消え去っている中、当時最も実力を過小評価され、ぶったたかれていた倉木が、なんだかんだと今なお一線で活躍しているのには、このことがあろう。

倉木がでてくるまで、「音楽は所詮、その殆どが才能で決まる」と考えていた。しかし、倉木の登場は、「天才じゃないがそれなりの資質のある人物が努力することによって引き出した120%が、天才的資質を有する人物の80%・90%を遥かに凌駕することもある」という事実を強烈に見せてくれたように思う。

倉木もエイベックスのBOAも、通常の人々より遥かに優れた資質を持っているが、両名ともそれに努力をもって磨きをかけるということを怠っていない点で共通している。逆に宇多田や中島にはそういった要素を感じない。10年・20年と長い視点で見たとき、最後に笑うことができるのは、果たしてどちらなのだろうか。
世間的には売上の開きとかから「倉木は宇多田のライバルではない」とよく言われる。私は売上といった側面ではなく、上記側面から同様の考えを持っている。現時点での私の見解では、倉木のライバルは宇多田ではなくBOAであると思う。宇多田や中島は、倉木やBOAといったアーティストよりも既に評価が下であるし、宇多田や中島が現状のままでいくのなら、世間的な評価や売上は別にしても、1アーティストとして落ちぶれていく可能性があると思う。私が前回の冒頭で「うさぎとかめ」の話を持ち出したのは、まさにこのことがあるからだ。

だが、さんざん倉木を誉めてきたものの、じゃあ倉木に問題・課題はないのか、といわれると、やはり「ある」としかいえない。次回以降では、倉木の抱える問題・課題について記していく。






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