File109 宇多田VS倉木論 第2部A


倉木の魅力とはなんだろうか。ひょっとしたら今までの他事争論の中で、最も難しいテーマかもしれない。いや確実にそうといえるだろう。それは、彼女が業界に登場したときから、宇多田やMISIAやLyricoや小柳のように完成された実力を見せつけたわけではなく、作品毎ごとに音楽性の拡大や歌い手としての成長を見せる「進化・成長していくアーティスト」だからに他ならない。故に、上記アーティストらが、既に自分なりの固定評価を確立しているのに対し、倉木に関しては今をおいても、一向にそれを確立することができない。
上記アーティストと倉木の評価の過程で感じずにはいられないのは、まるでそれが有名な童話である「うさぎとかめ」の話を示しているように思えるからだ(このことはいずれ示します)。以下かなり長くなるが、倉木の魅力について上記アーティストらとの比較も交え、脈絡なく語っていく。
倉木は確かに出てきた当初は、作曲しないということや未熟な歌唱力もあったことから、上記アーティストらを含めた圧倒的な歌唱技術を見せる豪華アーティストらと比較され、世間や業界から叩かれる羽目になった。倉木は音楽的資質が低く、外見的要素だけだと。このことは今においてさえ多々見受けられる言説である。確かに出てきた当初においては、この言説はある程度の妥当性を有してはいた。しかし、その当時においてもそれは必ずしも的を得た言説ではないと考える。そもそも倉木に音楽的資質がないといい切れるのだろうか。
繰り返すが、宇多田のように作曲をしないという点、また他者を圧倒するような優れた歌唱技術を持ち合わせていない点などアーティストとして落ちる点があるのは事実。しかし、倉木には比較対象となるアーティストの誰よりも、特に歌い手として優れている点がある。それは曲を選ばない歌唱の「多様性・柔軟性」であり、それがもたらす曲と歌唱の「一体感」である。私は倉木の魅力や美点は何かと聞かれたら、このことを真っ先に答えるようにしている。
そもそも歌唱技術だけをことさら取り上げてどうのこうのというのは明らかにおかしい。曲の良し悪しというのは歌唱技術のみで決まるものではない。そうでなければ80年代のアイドル歌謡曲が名曲として残るはずもないだろう。曲の魅力や歌の魅力は、曲の質、曲との一体感、声質の魅力といった他の要素で決まる余地も多々あるからだ。R&Bの曲はいわずもがな、AOR・ハードロック・バラード・「Winter Bell」のようなアイドル的歌謡曲などなど多くの曲種を遜色なく歌いこなせる倉木は、その点において、殆どのアーティストを問題にしていないと私は考える。
多種多様な曲を歌える歌い手は今までもそれなりにいるし、冒頭で挙げた歌手などもまたそうであろう。但し、それらとの歴然とした違いは、繰り返すが曲との一体感に大きな差があることと、さらに器用貧乏さを感じないということがある。何故にその違いや差を感じてしまうのだろうか。それには歌い手の資質と曲の質という2つの要素が大きく関わっていると考える。以下業界の主アーティスト(作曲しない)らの名を提示し、それらをタイプ別に分けた上での分析を通じ、倉木の魅力や凄さを示していく。(以下掲載するアーティストの熱心なファンの方にとっては厳しい意見ばかりになりますのでご注意を。)。

器用さや多様性を有した歌い手は多々いるが、その誰もが倉木に勝てていないと感じるのには、それらアーティストそれぞれに致命的な問題があるように思うからだ。

@歌唱偏重型:倖田來未 Lyricoなど
この両名を始めとしたこの型の致命的な問題は、歌い手のあまりに優れた歌唱に比べ、与えられる曲の質が低すぎるということにある(Lyricoは作曲もするが最近ではほとんどなくなっている)。裏を返すと、彼女らの技量にあった曲を作ることの難しさを意味しているといっていいだろう。(実際個人的にびしっと決まったと感じさせられた曲は、指の数ほども存在しない)。
歌があまりに突出している彼女らの曲を聞いていて、歌と曲との一体感の欠如やバランスの悪さに多々うんざりさせられる。それが故に、彼女らの歌の上手さは、単なる「器用貧乏」さとしてしか感じとることができない。レビューで毎度の如く書いているけど、「抜群の歌だけが虚しく響き渡る」だけ。最近の愛内里菜もこの型に入るだろう。

A自己満足型:MISIA 小柳ゆき 元ちとせなど
この3者を始めとしたこの型に顕著な特徴は、歌唱偏重型と同じく与えられる曲の質が低いこと。しかし、このこともさることながら、歌唱偏重型のアーティストとの歴然とした違いであり問題として、とにもかくにも曲調を無視して自分の歌唱技術を見せ付けることばかりに終始しがちなことがある。かなり厳しい意見になるが歌い方に工夫がない。小柳と元ちとせは特にこの傾向が酷い形で出ていると感じる。私が彼女らの曲を聞いて思うのは、常々彼女らの曲を聞いているのではなく、「彼女らの歌だけ」を聞かされていると強く感じさせられることだ。もっと厳しい言い方になるが、普通の人より歌の上手い人が、ナルシズムに浸ってマイクを独り占めしてカラオケを歌い続けるようなものだ。そこには聞き手に歌唱を通じて魅力ある曲を聞かせるといったことはなく、本人の歌唱をとにかく聞かせるという自己満足以外何も存在しない。つまりはどの曲を聞いていても均質的な印象しか感じないのだ。歌唱偏重型の悪しき変質型であろう。

B資質浪費型:中島美嘉 島谷ひとみなど
この2名を始めとしたこの型に特徴的なのは、上記2つの型とは違い、歌い手自身に圧倒的な歌唱技術はないこと。そして、倉木と同様、柔軟性と多様性とを有した優れた歌い手という特徴がある。ただし、この型のあまりに深刻な問題として、歌い手たちの優れた資質を伸ばそうとする意図が社や所属事務所から一向に感じ取とれなことがある。本人の資質に頼った、いや本人の優れた資質を単に無駄遣いしているだけの曲作りしかできていないという歌い手にとって不幸な状況と、一方歌い手本人たちもその現状に満足してしまっていることを問題として誰も認識できていない。今の北原愛子もどちらかというとこの型に近いものがあると考えている。

総じて、上記太字部分の歌い手の資質と曲の質の問題が故の曲と歌との一体感の欠如か、仮にそれがあったとしても、低いレベルで満足してしまっているといえる。以上のことを踏まえ倉木の魅力を語っていく。次回へ続く。






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