File105 宇多田VS倉木論K


今回は1曲目以外の曲について分析を行なっていく。

2曲目「Feel Fine!」。1曲目と同じく徳永の作曲の曲。これまた徳永作曲の「Stund up」以降で最高の売上を誇り、作品毎に売上が落ちていく倉木を再び躍進させた曲である。徳永ならではの抜群のリズム感とスピード感が発揮されたこのシングル曲は、如何にも愛する二人だけの楽園を想起させる典型的「サマーソング」といえよう。端境期における葛藤に対する現実逃避的側面、楽しかった昔を懐かしむという意味合いがこの曲にはあると考える。シングル曲であり、アルバムに収録されたのは宣伝的な意味合いや商的な意味合いが当然あり、それ故に浮いてしまうのではと危惧したものだが、それどころが実にはまっているといえるだろう。1曲目のやや厳粛な雰囲気とは一転して、単純明快なロックナンバーを持ってきた選択は、正しかったように思う。

3曲目の「Ride On Time」は典型的R&Bナンバー。1曲目が厳粛さと幻想性をあわせもった曲、2曲目が「二人の楽園」を想起させるストレートなロックナンバーというやや現実世界から距離を置いたように感じるのに対し、R&Bの要素をふんだんに感じるこの曲は、実に地に足着いた感がする。作品に適度な重みと力とを与えているともいえよう。憂いを帯びながらも力強く切実に歌いあげる倉木の歌唱は、冒頭の「誰もが理想を追い求めては学んだ現実 乗り越えていくだけ」にあるように、いつの間にか理想や夢を持つことを諦め、漫然とした現実に流されていくうちに、自分を失っていくことの辛さや、または、その現実を諦めの気持ちで受け入れようとしていることへの疑問を歌い上げる。「ゼロから始めよう」といい1曲目で示した過去への回帰を説きつつ、そうでありながらも果敢に「未来への時間に飛び込み」、「Take me the future」(私を未来へ連れてって)と、ここでも単なる現実逃避にとどまらない表現主題を提示している。
しかしながら、積極的に未来へ行くことを示しているのにも関わらず、この曲における倉木の歌唱に悲しさを感じずにはいられない。身から搾り出しているかのような歌唱は、現実との妥協を繰り返しつつ、それでも高い目的意識と自我とを持ち先へと進んでいくことの難しさや辛さを表現しているのだろうか。終盤のラップと重なって、ひたすら「Ride on Time」と歌っていくところに、特にそう感じずにはいられない。

4曲目は「Key To My Heart」。倉木の名パートナー大野の曲であり、ファンの間でも非常に人気の高い曲。大野ならではの繊細さとメロディー展開の流麗さが、この作品のキーワードである「ファンタジー」を感じさせる。効果的な電子音の挿入を始めとした「サイバーサウンド」の編曲の上手さもそう感じさせる要因であろう。ところで、中間奏のパーカッションにビートルズの「ペニーレイン」?と思ってしまったが(そういえばこの曲は過去を懐かしむ曲だったような)。最後はサビの繰返しがひたすらエンドレスに続き終わる。あえてしっかりとした終わりを設けなかったのは、製作側の意図なのだろうか。真意は分からない。

5曲目は「Winter Bells」。ウィンターソングなのにクリスマスに販売にならなかった不思議な曲なのだが、曲としてはよくできていると思う。但し、コンセプトアルバムを標榜する今作において、この曲を収録したことは間違いだったように思う。この点に関しては、次回予定の「今作の問題」で改めて記したい。

6曲目は、大野曲「Loving You」。1stアルバム収録曲のような雰囲気を感じさせるR&B曲である。「Winter Bell」「Key to〜」とさわやかで穏やかな曲が2曲続き、聞き手を安心させた後に一気に暗くて思い雰囲気へと引きずり込む。詞の内容は、表現主題にややあっていないように思うが、幻想さと現実性の切り替え、楽しさ懐かしさと悲しさ・辛さといった各々の要素の切り替えを聞き手に認識させる上で、この曲は大きな効果を挙げているのではと、私は考える。
ちなみに本論を書く上で大いに参考にさせていただいているちゃぶー氏の評論では、この曲は倉木の名曲中の名曲「Love day after tomorrow」の2日後の世界を描いた「アンサーソング」と分析されている。実に面白い解釈で、しかもかなり的を得ていると思う。

7曲目「Can't Forget Your Love」。幻想的な雰囲気を演出するストリングス、倉木の繊細さ溢れる高音歌唱、時間を越えた永遠の愛という詞は、ファンタジーというテーマにぴったりであろう。シングルとしては、その印象の弱さから、あまりいいとは思わなかったのだが、アルバムでは結構しっくりいっていると思う。

次は8曲目「Trip In The Dream」。「魔法がとけないうちに月光の下を〜」や曲名が示すように、こども世界の象徴たるおとぎ話や夢の世界を表現した曲ととらえることができよう。軽快さとスピード感を有した曲調もあり、聞いていて非常に爽快さを感じる。作編曲を担当した徳永らしさ全開の秀曲ではないだろうか。

9曲目「Not That Kind A Girl」は、「夢から覚めたら、そこには大人でも子供でない、今の私がいる」という端境期にいる己が身の心理を率直に表現したR&B曲。一見単純なようで、
「背伸びをしている 私がここにいるよ 臆病な心で 夢を見ては ガラスの靴を履く」
「完璧求めて 意地を張るけれど 怖かった 傷つくの」などなど、やや中傷的な詞が、若くして業界の人気者になってしまった故に抱えることになる内面の苦悩を鋭く描き出しているように思えてならない。しかし、大切な人との出会い、それら人々からの励ましが、倉木の苦悩を払拭させ、倉木の「自分らしさ」を取り戻させるものになっている、ということを、曲を通して強く訴えかけている。

10曲目「Like a star in the night」は壮大なバラード曲。雰囲気はしかし、元々がタイアップもとの海外ドラマ「ダークエンジェル」の内容に合わせて恐らく曲を製作したと推測されるので、曲の雰囲気はともかく、詞はこのアルバムのコンセプトにあってはいない。

11曲目は今作唯一の日本語題名「不思議の国」。白ウサギや曲名から考えるに、あの名作「不思議の国のアリス」に触発された曲であることは間違いないだろう。1曲目の「Fairy Tale」とこの曲並びに最終曲は、間違いなく表現主題が集約された鍵となる曲である。「今日という日を支配されないように」「光る道をただ進めばいいから」と、「自分の意志と力をもって日々を歩いていこう」ということが示される。「言葉に意味を 時間に意志を 明日という日を見失わないように」、「Let's go now!」(今を進んでいこう)と・・・。今までの数多くの人が「遥か遥か昔からそうしてきたように」と・・・。
この回答はある種開き直りといってもいいかもしれない。しかし、同じように日々を生きていていても、漫然とそうしているのと、しっかりと自分の意志をもち明日を見据えてそうしているのとでは、天と地ほどの違いがあるのではなかろうか。じたばたしていても現実はそうは変わらないかもしれない。でもそれでもやはり気持ちだけはしっかりしてほしい、という倉木の考えがしっかりと伝わってくる。

で、いよいよ最終曲「fantasy」。曲名こそ「ファンタジー」であるが、内容はそのファンタジーの世界から主人公が戻ってくるお話だ。ちゃぶー氏の分析にもあるが、『(引用)「トンネルのこちら側」』に帰ってくる、つまりは、こども世界の象徴である「おとぎ話の世界」に別れを告げ、現実世界への帰還を歌い上げた曲である。
ここで倉木は、「輝く命を受けながら想像力の中泳ぎ 時間忘れたあの頃の 心通し感じた風景は いつまでも ここにあるように」と示す。子供時代を通して得たもの(風景)は決して消え去ることはない。それは気持ちの持ちようでいつでも見ることができる(また逢える)のだと、私は理解している。
この曲における日常性を感じさせるもの(「両手でバランスとりながら〜心通し見ていた風景は」の部分)を提示し、非日常性(おとぎ話)から日常性(現実)への帰還を表現した手法は、多くの映画で用いられているものである。
ちゃぶー氏が評論で示している「千と千尋の神隠し」もそうであろう。しかし、私はここで「ドラえもん」を例にとってこのことを示したい。

今の作品は知らないので定かではないが、少なくとも作者が存命であった時代のドラえもんの映画においては、異世界とか過去や未来、つまりはドラえもんの世界の中における非日常性の世界での冒険で、ドラえもんやのび太を始めとしたお馴染みのメンバーが各々の世界が抱える問題を、ドラえもんの道具とメンバーの友情をもって解決していく。それは、各々の世界における歴史的偉業といってもいいだろう。その体験を通して登場人物たちは成長していくわけであるが、当然のことながら、その世界での滞在は永遠に許されるわけではない。冒険は終わりがあるから冒険なのだ。そしてそこから帰ってくる一番最初の場所は、いつもの「空き地」。また、家に帰ったのび太は殆ど必ずといっていいほどに、母親から「宿題やったの?」とお小言をくらう。「空き地」と「母親」、それはドラえもん世界における日常性を象徴するものなのである。そして、その日常性においては、非日常世界の冒険を通じて得た体験や成長というものを垣間見ることはできない。冒険を通じて登場人物が大きく変わったように見えて、実は結局変わっていないという、映画を見る度に陥る無限ループ的なものを、ドラえもんの映画の終わりは構築しているのだ。ドラえもん世界における非日常性の終わりの描写は、映画の鑑賞者に、非日常性の象徴であるアニメ作品がいよいよ終わりにさしかかり、鑑賞者における日常世界、つまりは現実世界への帰還するときが近づいていることを鑑賞者に促す。このつくりはドラえもんだけではなく、80年代を代表する名作「バックトゥーザフューチャー」でも用いられている。

だいぶ話が長くなってしまって恐縮なのだが、今作の最終曲を聞いていて、「ドラえもん」の映画のことを考えずにはいられなかった。ドラえもんの映画作品と同様、非日常性の象徴たるファンタジーを題材にしたコンセプトアルバムの幕引きとして、あまりに見事というほかないだろう。このことだけでも、今作が単なる現実逃避の作品でないことは明らかである。

今作は、従来の日本のポップス・ロックのアーティスト並びに業界の理論からは考えられないコンセプトアルバム〜しかも人が人として避けられない普遍的な題材を扱ったコンセプトを高いレベルで提示した歴史的名盤であるといえよう。この題材は19歳当時の倉木だからこそ作れえた作品であり、どんなに音楽的技量があったとしても、今の倉木本人を始め20歳を越えているいかなるアーティストにも、または18才以下のアーティストにも作ることはできない。仮に倉木の後進がこういった作品を作ったとしても、それは所詮倉木の作り上げたものの亜流に過ぎない。本家である倉木を超えることは、容易ではない。誠にとんでもない作品を作ってしまったものだ。

但し、そういった高い評価を今作に対ししておきながら、実際のレビューにおいて今作を歴史的名盤クラスである95点以上の点をつけてはいない。次回ではその理由=今作の問題点についと、宇多田・倉木が送り出した3作に対する総括をやる予定。

本文の作成には、ちゃぶー様運営、「倉木麻衣の研究〜A Study In Mai-K」を参考にさせていただきました。






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