File94 宇多田VS倉木論D


会話しているときの声や低音部分での歌声に関し、宇多田と倉木の声は結構似ていると思う。特に、女性としては比較的低音で且つ、ややハスキーなところなんかは。しかし、歌唱スタイルに関しては、そうではない。
両者とも天然のヴィブラートともいうべき、楽譜にも記載されないような微妙な音の揺れを歌唱の端々から感じ取ることができる。が、両者の歌唱の明らかな違いであり、その他R&Bアーティストらと比べても、倉木の歌唱に特徴的なものであるのは、熱唱ともいえる張り上げた声での歌唱がないということ。「歌う」というよりは、どちらかというと「囁く・呟く」といった方が適切であろうか。「Sercret of my hearts」「happy days」や「Love day〜」などを始めとし、殆どの収録曲で、特に高音部分で顕著にでている。
さらに声の線の細さ。このことは倉木を批判する際に必ずといっていいほど指摘されることであり、私も過去に取り上げた問題でもあるが、この独特の声の細さが曲世界の表現に彩りと個性とを与えている、ということもまた事実。倉木の曲の特徴たる「切なさ」を演出する上で重要な要素であろう。
倉木の歌唱において最も評価すべき点は、どの曲においても自分の魅力を出せる多様性・柔軟性である。通常のボーカリストは音域や声量といった歌唱における物理的・技術的側面よりも、歌いまわしや声質といった特徴によって、歌うことのできる曲に制約を受ける場合が多い。もちろん歌い手の音楽的こだわりも左右しよう。つまりは歌い手が曲を選ぶということだ。例えば、松浦亜弥が歌っているような良曲を作り、与えたとしても、MISIAや元ちとせがそれを歌いこなすことができないし、そもそも歌う意志もないように。もちろん倉木にも音域といった限界も当然の如くあるし、歌いまわしや声質の特徴というものがある。しかし、それら特徴が、通常のポップス・ロックの範疇に入る曲で、物理的な側面や技術的な側面を除き、「露骨にあっていない」「歌いこなすことができない」と感じることは、ない。このことこそが、倉木の楽曲を多様なものにすることを可能にしている最大の要因であることは、まちがいないだろう。(2ndアルバムでは、技術的な問題や年齢の関係で、やや歌いきれていない・かみ合っていないと感じる曲があったものの、声質とかがあっていなかったわけではない。)。 今作でもかなり多様性があると思うが、今作以降、倉木はより多様性を増していく。(詳しくは2ndアルバム以降の解説で記す。)

最後に詞をみてみよう。普段私は音楽を聞く際に、詞を気にすることは殆どないのだが、今回両名の1作目の詞を見ていて、非常に興味深いことを発見した。それは、両者の間に詞におけるリアリティーに差があることである。宇多田の詞は非常に具体的で現実感があるのに比べ、倉木の詞には宇多田ほどにはそれを感じない。このことは、倉木の曲が比較的聞きやすいことや、宇多田よりも倉木が男性からの支持が高い、ということにつながっているのではないだろうか。
事例を持って各々違いや特色を示していこう。
宇多田の曲は、曲の冒頭において状況を示しているものが多い。「Automatic」の「七回目のベルで受話器をとった君〜」、「Movin' on without you」の「夜中の3時am〜」、「In my room」の「火曜日の朝」、「First Love」の「最後のキスはタバコのflavorがした〜」、「Give Me A Reason」の「Only sixteen 今夜」。 一方倉木に関しては、「Dalicious Way」の「波がおしよせて 光に揺れる午後」の一つのみ。
そして、詞世界における、主人公の恋愛並びに友情の対象となる人物の人称の違いも、両者の間にある。
歌詞カードを見ていて気付くのは、倉木は「あなた」という言葉に代わり、宇多田よりも遥かに多く「君(きみ)」という言葉を使用しているということ。さらに、「あなた」という言葉の使用頻度の差は、そのまま「私」という言葉の使用頻度の差にもつながっている。宇多田の7曲に対し倉木は3曲。つまりは、宇多田の方が自己主張の頻度が強いと共に、「女である私(わたし)」を通して歌世界を表現している、ということの証明であろう。
倉木は「私」に変わり英語の「I」を多用しているが、この「I」は、一個人としての「私」というよりも、どちらかというと「我々」とか「人」とかに近いものがあるのでは、と愚かにも私は考える。アメリカ人を始めとした英語圏の人々が、自分を示すときに使用する「I」とは何か違うような気がしてならない。

以上のことから考察するに、宇多田の方が具体的な状況設定をもって、「作中の女性である私」を強く描いていていることがわかる。また、宇多田の方が比較的個人の領域における異性間の恋愛を主題にしているのに比べ、倉木は恋愛、というよりも同性間の友情、ないしは異性間の友情を主題にしていること。総じて倉木の方が、ノンセクシャルの要素や人類愛的要素が強いということだ。
宇多田の曲が女性から絶大な支持を得ているのには、このことが理由として挙げられよう。それと対照的に倉木の詞は宇多田に比べかなり表現があいまいなことから、「具体性」にはかけるものの、それ故に宇多田にはない「一般性」や「多様性」「世界観の広さ」を持っているといえよう。倉木が比較的男性や年功者の支持を得ているのには、ひょっとしたらこのことがあるのではないだろうか。
今回詞を見ていて最終的に思ったのは、「宇多田は個(個人)を語り、倉木は人を語る」ということである。

ちなみに個人的にどちらの詞が好きかというと、断然に倉木。断定的な言葉が少なく且つ抽象的な表現が多いことから、哲学的問いを内包していると思うし、聞いていて想像力を働かす余地があると考えているからだ。






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