File46 歌唱力至上主義への疑問


すごい挑戦的なテーマでありますが・・・、最近の投稿レビューや書き込みなどを見ていて非常にきになっていることがありますのでそのことについて記していきます。
倉木・モーニング娘・ZONEなどなどに対するレビューや投稿記事を見ていると、やたらと「歌が下手」といった歌唱技術に対する批判がやたらと多い。確かにこのことは、彼女を評する上での一つの事実であることには間違いないのだが、そのあまりの多さと強い表現とに辟易しているというのが私の素直な心情。こういった批判は事実の一面を示してはいるものの、そのことのみに人々がこだわるあまり、大事なことを見失っているのではないだろうか、私はそう感じてやまない。
歌が巧いにこしたことはないし、あからさまに下手くそな歌唱は問題外でありますが、そのことを踏まえたうえで、あえてここで歌唱のみにこだわることが、何よりも重要なことなのか?、一つ疑義を呈したい。

このサイトで何度も述べているが、アーティストの一番の仕事というものは、優れた歌唱力を見せ付けることではない。それもまぎれもなく、「いい曲、優れた曲」を提示することである。極論すると、歌唱というものも、アレンジや楽器の演奏と同様、曲の魅力を引き出すための一つの要素であり、手段に過ぎない。要は、曲の魅力を引き出せるのであれば、仮に歌唱技術が秀でてなくても、そう深刻に取り立てることではないと考えている。

この手の話をするときに、必ず私が引き合いに出すのは、森高千里の「私がおばさんになっても」である。この曲は森高の中でも最高の一曲であると思う。森高千里はお世辞にも歌が巧いとは言えないが、だからといって、彼女より何倍・何十倍と歌唱技術の秀でた、元ちとせや美空ひばりやMINMIなどが、この曲を歌ったからといって、この曲の有する魅力を引き出すことができるだろうか。答えは断じて「No」。森高だからこそ、この魅力を見事に引き出せたといえよう。それはまさしく、歌唱技術でもなんでもなく、彼女の声質や彼女のもつイメージなどといったものであろう。
これはモーニング娘にもいえる。「Loveマシーン」をDOUBLEが歌ったからといって何ら魅力が出ることはないだろう。モーニング娘だから出せたといえる。倉木麻衣に関しても同様でしょう。
さらに、上記アーティストらなどが、もともと歌唱を最も得意とし、売りにしている人たちなのでしょうか。明らかに違う。彼女ら売りにしているのは、楽曲であり、声質であり、モーニング娘に関して言えば、グループの存在であり、マルチな活躍を見せ付ける総合エンターテイナーとしての活躍だ。そういった意図や戦略を無視し、単に「歌が下手」といった批判というものは、確かに事実の一端を示してはいても、批判の体を為していない。そのことを彼女らに対し突きつけることにどれほどの意味があるのだろうか。

かつての松田聖子や小泉今日子、オニャン子クラブなどの曲が今でに人々の心に残っているのには、彼女らの歌唱が優れていたというより、曲のよさと、曲の有するイメージに彼女らの外見や声質があっていたからに他ならない。

楽曲を名曲たらしめるのには、もちろん楽曲自身に素晴らしさがないといけないのはいうまでないが、それを歌い手が生かさないと全くの意味を成さないともいえる。どんなに歌が巧くても、曲のイメージからかけ離れた歌い手に歌わせてもそれは単に、巧い歌を提示しているというカラオケに過ぎない。要はイメージ付けなどを始めとした製作陣の戦略であろう。
例えば今、小柳ゆきが「恋のフーガ」を始めとした洋邦カバー作品を出そうとしているが、まさにその典型である。小柳の歌唱技術は日本でも紛れもなくトップクラスであるが、このように戦略が愚かであれば、それは宝の持ち腐れ以外の何者でもない。聴き手の支持を得るものであるとは、とてもじゃないがいえない。

歌が巧くなくても、曲のイメージにあった声質をもっていれば、曲のもつ魅力をさらに引き出すことができる。そして、曲自身が悪ければ、どんなに巧い歌い手が歌ったとしてもそれが名曲になることはない。元ちとせや最近のD・A・Iの伴には、顕著にそのことを感じさせられる。巧い歌唱も曲によって生かされたり殺されたりするのである。これらことは、私がこのサイトにおいて発する様々な考えの根底にあるものといえる。

次回からは、「コピーCD」について考えていきます。







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