File29 転向とマンネリズム・王道、そして壁A


・マンネリと王道

前回で「実際問題として、変化をしていないアーティストはいない」ということを述べてきた。しかし、物理的な変化はともかくとして、聞き手の感覚的な領域で「代わり映えしない」「同じことばっかりやっている」などといったことがいろんなアーティストに対し言われるし、私もそういったりする。それは、音楽性が変っても楽曲や歌唱などから感じる雰囲気などによってそう感じさせられていることがあるからだ。だが物理的な見地云々よりも、音楽などの芸術では、その受けてである人々がどうとらえるかという「感覚的領域」こそが何よりも重要。しかし、私がここで問題にしたいのは、音楽性が変化した変化しなかったことではなく、その内容だ。
音楽性が変化しないことに関し、われわれは、「マンネリ」「代わり映えしない」といい、一方では「これが魅力」「王道サウンドという」いうように全く相反する2つの評価を与えることが多々ある。
私個人としての考えでは、例えば女性アーティストの例で挙げると、「3rd・4thのDo as Infinity」や元ちとせやエイベックスのダンス系アーティストなどは前者、小松未歩や松任谷由美などは後者と考えている。
何故そのように評価がわかれてしまうのであろうか?。その理由として私が考えているのは、

@似たような楽曲であるものの、それが「お約束」の領域として広く一般的に聞き手に認知されているかどうか
A似たような感じであるものの、違いを見せるための何らかの工夫や趣向がこらされているかどうか
B歌い手の声質にくどさや単調さを感じないかどうか
C楽曲そのものの完成度が高いかどうか
D楽曲そのものが確固たる世界観を有しているかどうか

の5つである。

前回同様、ここでも各要素が個別して突出することはなく、相互に絡みあっている。この要素らを満たしているかどうかによって、「マンネリ」か「王道」かのどちらかになるのではないだろうか。
聞き手が常に聞かずにはいられない完成度を提示しつつ、単に同じことの繰り返しではない工夫を凝らす。そしてその楽曲らの積み重ねにより、一つの世界観を作り上げ、自己の持つ最大の武器、つまりは「王道」として昇華させる。松任谷由美や竹内まりあ、そして小松未歩らが長期にわたる活躍を可能としているのには、これら要素を楽曲によって証明しているからに他ならない。特に小松未歩の「謎」「君の瞳にはうつらない」「最後の砦」「ダンス」「ミステリアスアイズ」といったアップテンポの楽曲の数々は、まさにその典型であろう。こういったタイプの曲に対し、ファンは絶大なまでの期待と信頼とをよせている。それは何より彼女の楽曲が優れているということと、楽曲によって彼女が聞き手に対して提示してきた孤高の世界観の積み重ねの歴史が、聞き手が「王道」と認識する土壌を生み出したからだ。
一方、私がマンネリと感じているアーティストらはどうか。それらアーティストに対し、そう私が感じる最大の理由の最たるものは、何をさておいてもまず楽曲の完成度が低い、そして、楽曲によって自己の世界観を確立していないということだ。故に聞いていて中途半端さを否めないのだ。何をやりたいのかはっきりしないアーティストほど聞いていてつまらないのはない。今の多くのアーティストにかけているのは、確固たる世界観に基づいた楽曲と完成度。そういえるのではないだろうか。

・総括

転向にしろ、音楽性を維持するにしろ、何よりまず楽曲の完成度がともなっていないといけない。そして、どうった音楽をやるにしろ、自分らしさというかアーティストとしての世界観を提示する事が重要である。ただ転向に関して一ついうと、やはり聞き手の意向を無視した変化には疑問を感じる。聞き手がアーティストの音楽性を規定することに関しては、「ガーネットクロウの森」での掲示板などでも否定的な意見が見られるが、それはおかしい。聞き手が感じる共通した認識や期待等がそのアーティストの個性であり、音楽性であるからだ。それを否定することは、聞き手がアーティストに対する評価を否定することと同じであると思う。わかりやすいように極論をいうと、ガーネットクロウや小松未歩に完成度が高いからといって、いくらなんでも「Hip Hop」をやってほしいとは思わないだろう。アーティストやその楽曲にどういった考えを持つかは個人それぞれであるが、聞き手がアーティストに対して感じる魅力にはある程度の共通項が必ずあるはずだからだ。つまりはそういうことである。
アーティストは自分の意志にそぐわないとしても、聞き手が自己に対し、どういった音楽を作ることを期待しているかを考える必要はあろう。もし、そういった聞き手の意志から大きく逸脱した音楽をやりたいのであれば、活動名義を変える必要があると感じる。
DAIなどはその典型であろう。1stは孤高の芸術性とポップミュージックとしての完成度を両立させたすばらしい作品であったが、2nd以降単なるありきたりのロック・ポップソングが横行する作品へと転向する。そしてそれ以降もずっとそれが続き、DAIの何たるかが身をもって感じさせられる楽曲がないままに今日まで至る。さらに楽曲の完成度が低いこともこのことに輪をかけている。彼らの転向、そして現在の面白みや個性に欠ける楽曲の連発などに、全く持って意味や必然性というものを感じ取ることができないのだ。

個人的には、転向してアーティストが持つ最大の魅力を損なうのであれば、マンネリといわれても音楽性を変えず、アーティストの最大の魅力を全面に押し出す方がいいと思う。例えば、ガーネットクロウは最近明るいポップソング的な楽曲が多くなってきたが、個人的には荒涼感や虚無感と緊張感に満ちたかつての楽曲の方に彼らなりの魅力をより感じる。今のガーネットクロウの楽曲に、彼らならではの要素を感じなくなってきたのが正直なところ。依然として完成度が高いからまだいいのだが・・・。

なんだかんだで長くなりましたが、何はともあれ自己の世界をきちんと確立した完成度の高い曲とそれを作ることのできるアーティストの出現を心待ちにしている。

次回以降は、この2回の論稿を踏まえた上で、自分が今まで音楽を聞き続けてきて感じた「壁」について述べていき、この論考の終わりにしたいと思っている。ただ、倉木麻衣の新譜が来週出ることから、次回は臨時に新譜特集を組みたいと考えている。では。







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