♪File:25 AZUKI七その詩世界の魅力に迫る。


今回はガーネットクロウの音楽世界の構築に欠かすことのできないAZUKI七の詞について論じていきます。普段はメロディーと声質至上主義であるので、詞に関しては2の次なのですが、それでもAZUKI七の紡ぐ詩世界にはやはり惹かれるものがあります。それは、彼女の詞が独特の世界観を有していることにあると思います。

私が、このサイトで何度も記しているように、詞にいまいち関心を持てないのには、一昔前よりは格段に良くなったとはいえ、日本のアーティストの詩のレベルが低いことがあります。
「私・あなた」といった人称ばかりを使い、「好きだ好きだ」とか「失恋して悲しいとか」「こんなに僕たちはつらくて悲しいんだよ」的な詞に、正直うんざりさせられる。悪いとは言わないが、安直な恋愛の詞や悩みのしばかりではあまりに味気ないと思う。 その中において、AZUKIの詞には他のアーティストにはなかなか見られない魅力があると。その魅力として

・断定的な表現がなく、独りよがり的要素や押し付けがましさを感じないこと
・それ故に、聞き手が詩に対する想像や解釈を自由にできること
・何気ない日常や人の些細な感情の動きを、散文的且つさりげない言葉で鋭く描き出していること
・退廃的で暗くて重い詩でありながらも、それらのみに決して引きずられず、ほんの少しでありながらも未来への希望を感じさせること

などではないだろうか。

恐らくこれら以外にも彼女の詞の魅力は数多くあるだろう。しかし、一番の魅力は、言葉や文面に表せるものではなく、曲の聞き手が各々感じる何かにあるのでは、と思う。
私が一番の魅力として感じることは、おおよそ俗世間のしがらみや低俗な見栄や負の感情などを感じさせない、とらえどころのない自由さとスケール。
彼女の詞がなぜ魅力を有しているかの理由は、何よりも彼女自身が俗世間の価値観といったものに縛られず、自分ならではの感性とこだわりとをもって自由に生きているということにあると感じる。彼女に浮世離れした雰囲気を感じるのには、GIZAならではの秘密主義的な政策だけでなく、このことがあるからだと思うのだ。おおげさな言い方になるが、世捨て人の如き、といってもいいのではないだろうか。彼女の詞の世界には、兼好法師の徒然草に通ずるものを強く感じるのだ。その雲の如き自由な感性と神の目のごとく俯瞰的な視点で描かれた詞には、彼女ならではの世界観を存分に堪能できるものの、他のアーティストらとは違い、詩そのものからは彼女の人生体験はおろか彼女自身の存在というものを垣間見ることすら出来ない。詩はアーティストの自己表現とよくいわれることだが、彼女の詞にはその「自己」というものを感じないのだ。これは、ひたすら自己体験とかを投影しがちな昨今の詞と比べるとかなり突出しているといえよう。

ガーネットクロウの曲を聞いていると、ささいなことやつまんないことでうじうじしている自分が、何かとてつもなく矮小な存在に思えてしまう。このような感情を抱かせる詩は、業界の中でも殆どないだろう。ガーネットクロウが音楽性や楽曲レベルのみならず、他のアーティストととの差を決定的に感じるのには、彼女の詞の存在が大きい。中村由利のボーカルと作曲、そしてAZUKIの詩があってガーネットクロウは、ガーネットクロウ足りえるとさえ言えよう。
そして、数多くの曲をすでに発表しているにもかかわらず、他のアーティストと違い聞き手各々が「名曲」「好きな曲」と感じる曲が非常にばらけているのには、彼女の詞それぞれに対して、聞き手が自分の思いや経験などを投影しているということがあるからだと感じる。

最近は、往年の彼女らしらをあまり感じない明るくさわやかな曲ばかりで、少しがっかりしているところがある。今年最初の曲「泣けない夜も泣かない朝も」の販売が7月23日に決まったみたいだが、曲名から感じ取れるような、哀愁漂う絶品のメロディーと歌唱、そしてAZUKIの詩を堪能できる曲になってほしいと思う。

次回は、at the BEING studio「vocal compilation 90's hits vol.2〜female〜」を検証する、を予定。

P・S:
Azuki七的な詞の要素を感じさせるアーティストはそうはいないだろうと思っていたが、同質で同レベルの魅力を感じるアーティストを最近見つけた。それは熊木杏里。まだ21歳ではあるが、彼女が構築する音楽世界にはとんでもない才能とこの先の可能性を感じる。彼女は詞・曲ともに自分で作っていることから、宇多田や矢井田ではなく、彼女こそがガーネットクロウの最大のライバルとさえいえるかもしれない。







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