♪File:18 詩について考える〜音楽世界における英語偏重主義批判


ここ最近に限ったことではないけれど、日本のアーティストの曲を聞いていて非常に耳につくというか、気に入らないことは、詩にあまりに横文字(英語)が多すぎるということだ。これは特に誰々が、ということではないけれど、例えばひいきにしているガーネットクロウや倉木麻衣などもそうであろう。

音楽に限ったことではなく、日本においてあらゆるものに関し、あまりの横文字の多さに、もともと嫌いで苦手ということを差し引いても私ははっきりいってうんざりしている。
少し前の「クローズアップ現代」で様々な事例をもってこのことをとりあげていたのですが、幅広い年齢層の人々が読むと推測される役所のパンフレットですら、わずか数十ページにも関わらず、200以上の、しかも容易に理解することができない英単語が使用されていたという。見ていて怒りを通り越して失笑を隠せなかったのは、お役所連中を始めこのパンフを作った連中ですらも全く意味を理解していなかったことだ。
音楽に限定しても、詩を始めとして、ジャケット(これも英語だ)表記にアレンジやプロデュース・コンポーサー・スペシャルサンクスなどなど、横文字が溢れすぎ。GIZAのアーティストのCDの表記を見ていても、はっきりいって音楽をやっているのが日本人というだけで、洋楽アルバムと全く持って変わらないとまでいえるだろう。

話がそれたので元に戻そう。しかし、私のお気に入りのアーティストの中で、小松未歩・柴田淳・熊木杏里・一青窈などは、これら英語化の動きから比較的逃れている数少ないそれといえるでしょう。特に柴田淳と熊木杏里は、英語はおろか、カタカナ語ですらアルバム通して指の数ほどしか出ていない。彼女らを単体で聞いているときは特に感じないのですが、英語がやたらと出てくるアーティストと聞き比べると、歌世界に引き込まれる度合いというか、歌の理解のしやすさにやはり顕著に差がでていると感じます。まあこのことは、メロディーとか歌い手の発声とか聞き手の思考も影響するので一概に決め付けることはできないのですが、少なくとも歌世界にのめりにくくする一つの要因になっていることは確かであると思います。
日本語できちんとまとめられた曲には、単に曲に対する聞き手の理解を容易にするだけでなく、曲自身の荘厳さというか地に足がついた感がする。普段は詩にあまり関心がない私でありますが、それでもどうせなら理解しにくいより理解できたほうがいいのは、いうまでもありません。

それともう一つ、柴田や一青窈、熊木の日本語の詩には、表現の豊かさというか日本語ならではのよさを感じることがあります。彼女らの曲は、人間の心理や感情の表現を主題としていますが、やはりこういった繊細な表現を行うに関しては、聞き手の殆どが日本人であることから、日本語の方が圧倒的に優れていると思います。もし彼女らが英詩を多用するアーティストであったとしたら、はたして今日のような支持を得ることができたでしょうか。私は恐らくそうはならなかったと考えています。

次回は「落日のGIZA」を予定。ところで、一応ヒットカウンタが5000〜7000ぐらいになった時点か、お盆休みの時期を利用して、このサイトの一つの目的である「ビーイング・GIZAの変遷」を長期連載でやっていくつもりでおります。次回は、その前哨戦とも言うべきものでありますが、あえて最新のことを考察してみたいと思います。それでは







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